本居宣長「古事記伝」自筆本
正史である日本書紀とは異なり、古事記は中世においてあまり重要視されることはなかった。江戸時代の本居宣長のこの研究により、古事記は日本書紀と同様の原資料として認められるようになったといえる。
出典:国立国会図書館ホームページ
3.1 古事記の書かれた背景
3.1.1 古事記はいつのことまで記録されているのか
魏志倭人伝と邪馬台国が3世紀の出来事であることは間違いないが、そこから8世紀初め、710年に奈良・平城京ができるまでの約500年間、日本列島で何が起こったのかは実のところよく分かっていない。
その最大の理由は中国側の史書と日本側のそれとが一致していないことによるが、それだけでなく、日本側の史料同士でも食い違う点が多いことも寄与している。一応、大和朝廷の正式な国史は「日本書紀」ということになっているが、ここに書かれていることは必ずしも「裏が取れる」事実ばかりではない。
その意味で、日本書紀に先立つわが国最古の歴史書である「古事記」を検討することは重要である。実際、「古事記」をオリジナルとして内容を整理・拡充したのが日本書紀であることは、両書を読めばほぼ確実であると思われるのである。
江戸時代に入るまで古事記は日本書紀ほどにはきちんと管理されていなかったことから、日本書紀をもとに古事記が後の時代に作られたという「古事記偽書(にせもの)説」があることも確かである。
ただ、日本書紀自体つじつまの合わない点があるのに、よりつじつまの合わない古事記をわざわざ後の時代に作ったとしたらその意図はよく分からないし、素直に古事記の方が時間的に先に作られたと考えるのが妥当ではないかと思われる。したがって、古事記は実際に最初の部分に書かれている経緯により作成され、そこに嘘はないということで話を進めたい。
古事記の冒頭には、「飛鳥清原大宮で天下を治められた天皇」(天武天皇)が、各家に残されているわが国に関する古い記録には誤りや不一致が多いので、きちんと整理して後世に伝えようとされたのが発端、と書いてある。
その際、各家の記録を暗記した担当者が稗田阿礼(ひえだのあれ)である。その後天皇の代替わりにより、記録を整理し文書として残す作業は行われなかったという。それが和銅五年に至り、当代の「皇帝陛下」(元明天皇)の命により、太安万呂(おおのやすまろ)が書き下ろして古事記として完成した、とある。
さて、以上の内容を時系列で整理すると以下のようになる。天武天皇在位は672年から686年、この時代に古事記の編集作業が始まり、和銅五年、712年に完成した。その間には、飛鳥浄御原宮から藤原京、さらに平城京という首都移転プロジェクトがあり、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)、大宝律令という憲法制定プロジェクトがあった。
他にも、内政面では地方管理体制の強化、外交面では白村江の敗戦処理などの懸案事項が目白押しで、とても歴史書の編集にマンパワーを割ける状況ではなかったということは理解できる。
だから、古事記に書かれている内容は710年時点でなく680年を基準とした「歴史」のことであるのは仕方がない。同時代のことは「歴史」ではないので、その五十年前、あるいは百年前までのことが書かれているというのが普通であろう。
そして、古事記下巻は豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと・推古天皇)で終わっている。推古天皇在位は593年から628年とされているので、まさに680年からみて50~100年前ということになる。
ところが、推古天皇の記事は都のあった場所と、在位年数と、陵墓の位置だけのほぼ2、3行であり、推古天皇から前の何代かの天皇についても同様である。実質的に記事があるのは、10代前の顕宗(けんぞう)天皇までさかのぼらなければならない。
3.1.2 事件として生々しすぎて近年のことは書けなかったという事情
このことは、古事記から8年後に完成した日本書紀と比べてみるとよく分かる。日本書紀は持統天皇紀が天皇の記録としては最後の部分となっている。
さて、この持統天皇の在位は690年から697年、日本書紀が完成した720年からみると、20~30年前のことである。当時の平均寿命は50代くらいだから、長老級の長生きした人達にとっても若い頃にあったことであり、歴史書に書かれていてもおかしくはない。おかしくはないが、このことと比べると、古事記に100年前のこともまともに書いていないというのは不思議である。
ここでひとつ考えられるのは、「事件として生々しすぎて書けない」という事情があったということである。古事記を発案したとされる天武天皇は672年の壬申の乱で近江朝廷(天智天皇の系統)を滅ぼして政権を掌握した。その天智天皇は、645年の大化改新で蘇我氏を滅ぼして政権を掌握した。その蘇我氏の政権は、推古天皇と聖徳太子の時代に蘇我馬子が大臣(おおおみ)になることにより確立した。
だから、680年に古事記の編集が始まった時点で、天智天皇の功績をどう評価するかということは書きにくいし、さらに蘇我氏の評価、推古天皇や聖徳太子の評価についてもそのこととつながるので書くことは難しいかもしれない。しかし、せいぜいそこまであって、それより以前の天皇の歴史(業績)を書かない理由にはならないはずなのである。
ではなぜ、古事記には顕宗(けんぞう)天皇までしか実質的な記載がないのだろうか。推古天皇は33代、顕宗天皇は23代とされるので、天皇の代数としては10代、そして世代的には、(この二天皇の血縁関係は直系ではないけれども)ほぼ曽祖父世代にあたる。およそ100年と考えてよさそうだ。推古天皇まで100年間の事件は「生々しすぎて」書けなかったとして、さらにその前の100年は何の差しさわりがあって書けなかったのか。
そのことを考察する前段として、天皇の位がどのように継承されてきたか。いわゆる皇位継承について確認しておきたい。皇位は初代神武天皇以来現在に至るまで、「万世一系」つまり途絶えることなく男系男子により継承されてきたことになっている。しかし公式に残されている記録からだけでも、何度かにわたり遠い血縁関係による継承がなされてきたことが確認できるのである。
3.1.3 皇位継承の特殊事情と古事記
歴代天皇の系図をみてみると、遠い血縁関係から次代の天皇が立ったということは何度かあるが、その背景に政治的要因があったケースということになると、これまでの歴史の中で3つの例に限られるといっていい。
最も新しいのは、14世紀の南北朝である。この時代、後醍醐天皇の南朝と、室町幕府の立てた北朝が半世紀にわたり並存し、結局皇位は99代後亀山天皇(南朝)から100代後小松天皇(北朝)に継承された。この2人の天皇の共通の祖先は88代後嵯峨天皇で、この天皇から後亀山天皇は5代目、後小松天皇は7代目になり、つまり12親等の遠い血縁への継承であった。
その前のケースは8世紀、天武天皇系から天智天皇系への継承である。48代称徳天皇の急死を受けて、49代光仁天皇となったが、共通の祖先34代舒明(じょめい)天皇から称徳天皇は5代目、光仁天皇は3代目、8親等になる。この継承については藤原氏の陰謀が背景にあるとされ、実際にこの皇位継承以降藤原氏の勢力は増大し、後に摂関政治として頂点に達することとなる。
3つめはさらに古代、25代武烈天皇から26代継体天皇への継承で、この二人の天皇は15代応神天皇からそれぞれ5代目、10親等にあたる。代数で分かるように、まだ大和朝廷創生期の頃の話である。
この3ケースのうち、後亀山→後小松、称徳→光仁の2ケースについては、それぞれ南北朝と室町幕府、藤原氏の勢力増大という政治的背景があり、それに付随して長い年月にわたって多くの事件があった。そうした事件を背景に生まれたのが「太平記」であり「万葉集」といった文学作品であるといっても過言ではない。
したがって、武烈→継体の皇位継承についても政治的な背景があり、また付随する多くの事件があったはずなのだが、実はこの部分が、まさに古事記で書かれていないところなのである。
古事記の「継体天皇」の項では、後継ぎとなる王がいなかったのでヲオドノミコトを近淡海(近江、現在の滋賀県)から迎えて天皇としたこと、都の位置、在位年数、陵墓の場所、子供の名前などが書かれているだけで、その経緯や事件等の記事がほとんど書かれていない(実は一つの事件だけ1、2行書かれているのだが、これは後に触れる)。
古事記において、直近100年のことが書かれていないだけでなく、さらに100年、計200年間の歴史について実質的に記事がない理由は、まさにこのことに深く係わっているのではないだろうか。こうした観点から、古事記についてまず考えてみたいのは「古事記の主人公は誰なのか」ということである。
[May 25, 2008]