隋の煬帝
南北朝の混乱を収束し300年ぶりに統一王朝を創り上げた隋だが、その後30年足らずで滅亡する。煬帝は、倭国からの国書を見て「以後、取り次がないように」指示した皇帝。出典:Wikipedia

4.1とりあげられることの少ない隋書

4.1.1 隋王朝と隋書

さて、ふたたび中国の史書に戻って、隋書である。隋書は中国の王朝「隋」の歴史を記録したものであるが、およそ400年前の「魏志倭人伝」に比べてとりあげられることが少ない。なぜかというと、隋書の方が製作年代が新しく歴史上の事実である可能性が大きいにもかかわらず、日本史の通説にとって都合の悪いことが書いてあるからである。

隋は、589年に約300年ぶりとなる中国統一を果たした王朝であるが、618年には早くも滅亡した。2代皇帝である煬帝(ようだい)の失政によるものとされる。その歴史について記録した隋書は、次の王朝である唐の時代に入って、魏徴(ぎちょう)、長孫無忌(ちょうそんむき)などが皇帝の指示により編纂にあたり、650年に完成した。

魏が存続したのが220年から265年、魏志を含む三国志が陳寿により完成したのが280年だから、書かれている時代も、製作された時代も、350年以上の開きがある。新しい時代の方が必ずしも信用がおけるとはいいきれないが、少なくともその間に情報は積み上がっているはずで、経験や伝聞による確認作業を経ているものと考えられる。

そして隋書の有名な一節は、ほとんどの歴史教科書に掲載されている。

大業三年(607年)、(倭国の)王タリシヒコが朝貢してきた。その国書はこのように書いてあった。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきや」云々。皇帝はご覧になり、不快になられた。鴻臚卿(役名・王の側近)は言った。「野蛮人の国書は無礼である。以後取り次がないように」

大国である隋と、対等なもの言いをしたということで有名なこの国書であるが、日本史の通説では、これは聖徳太子が送ったということになっている。しかし、考えるまでもなくこれはおかしな話である。第一に、聖徳太子がタリシヒコ(アマ・タリシヒコ)となぜ名乗ったのかということ、第二に、そもそも聖徳太子は皇太子であって王ではないのである。



4.1.2 阿毎多利思比孤(アマ・タリシヒコ)は国書に書かれていた名前

この点について、井沢元彦氏は著書「逆説の日本史」において、以下の主旨で説明している。

いまでもそうだが、古代において貴人の実名を口にすることはできなかった。そのため、使者は隋の役人に王の名前を聞かれて、「われわれはアマノタリシヒコとお呼びしています。あるいは、オオキミと呼びます」と答えた。それを聞いた隋の役人が姓名をアマ・タリシヒコ、王を指す言葉をオオキミと記録したのであろう。

確かに、古代の中国文化圏において、皇帝の実名を呼ぶことが不敬とされたことは事実である。例えば、日本でも広く信仰されている「観音さま」の本当の名前は「観世音菩薩」である。この「世」がなぜ消えたのかというと、唐の二代皇帝の実名が「李世民」であったため、ちょうど日本に仏教が広まるころ「世」の字が使えなかったからなのである。

しかし、使者が実名を呼ぶことが不敬だから、倭国王の名前が不明であるという説明はおかしい。使者が口頭で説明をするだけならば成り立つかもしれないが、倭国から隋には例の「日出づる処の天子」の国書が送られているのである。確かに、最初の朝貢である開皇20年(西暦600年)の時には国書を送ったとは書いていない。だが、大業3年(607年)の時には国書が送られていると記録されている。

国書である以上、差出人の名前と肩書きが書かれていないことは考えられない。差出人の肩書きとして「阿輩○弥(オオキミ)」、名前が「阿毎 多利思比孤」と書かれていたから、姓はアマ(阿毎)、名はタリシヒコ(多利思比孤)、オオキミ(阿輩○弥)と号す、と隋書に記録されたと考えるのが自然である。

いまでも、天皇陛下の署名・捺印は「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」と呼ばれており、あからさまに陛下のお名前をお呼びすることはない。しかし、国事行為として行われる際の御名(ぎょめい)、つまり天皇陛下の署名には、当然のことながら陛下のお名前が書かれている。それと同じことである。

さて、隋の前に倭国が中国に朝貢したのは、5世紀の中頃、南朝の時代である。その時代にもいわゆる「倭の五王」が国書を送った。その際の差出人名は、例えば「自ら倭国王と称し、正式な任命を求めた」とあるくらいだから、肩書きとしては「倭国王」、名前は「讃」とか「武」であったと考えられる。

それに対して約150年後の隋の時代には、「倭国王」に任命してくれとも言わないし、中国風の名前も名乗っていない。このことは、国家意識の芽生えという観点から説明されることが多いが、当時としてはかなり勇気のいることであったのは間違いない。

おそらく、アマ・タリシヒコの目には、「大国とはいっても、隋はつい最近できた国だ。わが国の方が歴史は古い。それに、いつまた征服されて違う王朝になるか分からない」と映っていたのではないかと思う。それが、対等な国同士のような国書を送る背景にあったのだろう。

さて、そのアマ・タリシヒコが聖徳太子であるという通説は納得できるものなのだろうか。



4.1.3 アマ・タリシヒコを聖徳太子と考えるのは無理

聖徳太子は、第31代用明天皇の皇子で、本名厩戸皇子(うまやどのみこ)。第33代推古天皇の皇太子・摂政として、「冠位十二階」「十七条の憲法」を定め、法隆寺を建立、「三経義疏」(さんぎょうぎしょ)を著すなど、仏教を広めることに注力したとされている。

そして、聖徳太子が「アマ・タリシヒコ」であるという唯一の論拠は、日本書紀に、「聖徳太子が小野妹子を隋に派遣した」という記事があることによる。それ以外に、ほとんど何の証拠もないのである。

なぜ聖徳太子が、「アマ・タリシヒコ」、「オオキミ」、あるいは「日出づる処の天子」と名乗ったかについて、日本書紀は何の回答も示してはいない。そして、隋書を細かく見ていくと、つじつまの合わない部分はそれだけではなく出てくるのである。

これに対して、日本史の通説では、「日本書紀の記事を否定することはできない」「日本書紀のこの記事以外に、わが国から隋に使者を送った記録はない」という理由で、聖徳太子=アマ・タリヒシコという強引な推定が行われている。

さて、この節の最初で述べたように、隋書の成立は西暦650年頃である。一方、日本書紀の成立は、古事記(712年)より少し後の720年である。その間70年、日本書紀の作成時点では、当然隋書の記事も読まれていたはずである。

だとすれば、日本書紀作成の過程において、つじつま合わせが行われていてもおかしくない。隋に使者が送られた時期の天皇は、推古天皇ということになっている。しかし、推古天皇は女性であり、「アマ・タリシヒコ」は男性であると明記されている。仕方がないから、聖徳太子が行ったことにして記事を書いた。有り体にいえば嘘だということである。

このことは、11世紀に作られた「新唐書」を見ると裏付けられる。そこにはこう書いてある。

次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中国通。
その(敏達の)次の王は用明である。またの名をタリシヒコといい、隋の開皇年代に(天皇として)初めて中国に使者を派遣した。

中国の歴史書でも、天皇である用明天皇をタリシヒコとし、聖徳太子をタリシヒコと認めてはいないのである。しかし用明天皇は在位2年、少なくとも7年間にわたり隋と交流したアマ・タリシヒコとするのは無理がある。



4.1.4 アマ・タリシヒコは、大和朝廷=日本とは別の国の王

この間の推移を時系列でまとめると、以下のようになる。(わかりやすく、西暦で統一する)

① 650年頃に成立した隋書の記事に、600年から607年までの間、隋の煬帝(ようだい)と倭王アマ・タリシヒコの間で数度にわたる交渉があり、最後には国交を断絶した(以後、取り次がないようにと煬帝が命じた)ことが記録されている。

② 720年に成立した日本書紀には、推古天皇(在位593-628年)の摂政・皇太子であった聖徳太子が、隋に小野妹子を派遣したという記事がある。

③ 11世紀に成立した新唐書には、アマ・タリシヒコは用明天皇のことだと記録されている。

②の成立には①が、③の成立には②が、それぞれ影響していると思われるから、その事情を推理してみる。

まず②については、中国の正史に書いてあることを日本の正史に書いてなければ不審と思われるので、日本書紀のどこかに記載しなければならない。しかし、その時期に女帝・推古天皇が長く在位したことは、修正しようにも修正できない事実であった。

仕方がないので、アマ・タリシヒコが聖徳太子であるかのような記述をした。しかし、聖徳太子がアマ・タリシヒコであるとはっきり書くことはできなかった。実際、それは事実ではなかったし、もしかするとこの名前は、天皇の位にある者以外に名乗ることができないものだったかもしれない。

そして③については、日本側からは「アマ・タリシヒコは聖徳太子のことです」と申告したと思われるが、中国側はそれを認めなかった。いうまでもなく、アマ・タリシヒコは倭王と隋書に書いてあるからである。

つまり、後進国・日本の言うことより、前代の中国王朝の記録の方をより信用できると判断したからである。だから、在位年数の一致しない用明天皇がアマ・タリシヒコのことだと書かざるを得なかった。これらの事実からだけでは、何が本当のことなのか分からない。

実は②と③の間には、もう一つ中国の正史がある。「旧唐書」(くとうじょ、と読む)である。この内容について詳しくは別に機会に触れることになるが、そこには、「倭」という国と「日本」という国は別の国である、と書いてある(この記事も、わが国の古代史では故意に軽視されているようだ)。

つまり、第四の要素として、以下の仮定を置くことが可能となる。

④ 倭王アマ・タリシヒコは、大和朝廷=日本とは別の国の王である。

④を置くことにより、①から③の事実関係が、大きな矛盾なくつじつまが合うことになるのである。



4.1.5 倭と日本は別の国

唐の時代についての中国の国史には、新・旧の両バージョンがある。国史はその王朝が滅びた後に次の王朝により製作されるのが原則であるが、10世紀に旧唐書を作った後晋がすぐに滅びてしまった上、内容についても不十分であると考えられたことから、11世紀に改めて安定政権・北宋により新唐書が製作された。

したがって、旧唐書の方が製作年代が古く、原資料をより反映していると思われるのだが、この旧唐書では「倭国伝」と「日本国伝」を別項目として記事にしていることに加え、日本国について以下のように述べている。

日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本旧小国、併倭国之地。
日本は倭人が建てた別の国である。日の出る方向(東)に国があるため、日本という国名とした。異説として、倭国が国名がよろしくないと、自ら日本と改めたともいう。また異説として、日本はもともと小国であったが、倭国を併合したともいう。

日本がもともと「ひのもと」、太陽が昇ってくる方向(東)にある国ということも、倭という国名が「小さくて醜い」という意味なので改めたということも、よく知られている。しかし、同じ出典でありながら、「小国である日本が倭国を併合した」ことについて、ほとんど触れられることはない。これが古代史研究の不思議なところである。

全国の古墳の分布からみて、4~5世紀に日本列島に複数の王がいたことは確実である。この連載の最初で述べたように、実効支配を行うためには、その地域を直接実力で押さえるだけの、交通手段と軍事力がなければならない。その時代に、日本列島全土を支配する力を持つ国はなかったと考えられる。

それが、聖徳太子の時代、つまり6世紀末までには大和朝廷により統一されたというのが通説である。それを裏付ける理由のひとつが、隋に使者を送ったのが聖徳太子ということである。しかし、その点に疑問符がつくと、そもそもこの時代までに日本列島は大和朝廷によって統一されていたのか、という基本的な問題が出てくるのである。

私は、隋に使者を送った時点で、日本列島は一つの国に統一されていなかったと思う。たとえば現代においても、イングランド、スコットランド、ウェールズというグレートブリテンの3王国が、外交上では「連合王国」(イギリス)として登場するように、日本列島にもいくつかの勢力があって、その中の最大勢力が倭国王として隋と外交交渉をしていたのではないかと考えるのである。

その最大勢力が大和朝廷であれば、通説と大きな違いはない。しかし隋書をよく読んでいくと、魏志倭人伝のときと同様に、どうしてもその所在は九州としか考えられないのである。



[Sep 23, 2008]

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