宇佐八幡宮
全国どこにでもある八幡宮の本宮は、九州宇佐にある。八幡神とは、応神天皇のこととされ、奈良時代末には皇位継承についてお伺いをたてたことでも有名。
(個人撮影)

7.0 古事記と応神天皇

7.0.1 古事記中巻後半の性格

「常識で考える日本古代史」シリーズでは、魏志倭人伝以下の中国史書を読む限り、日本の代表政権は九州にあったはずであること、また、白村江の壊滅的打撃にもかかわらず近畿政権がほとんど何の影響も受けていないことから、この時点、つまり天智・天武時代に九州から近畿へと覇権が移動した可能性について考察した。

もしそうだとすれば、古事記・日本書紀に述べられている仁徳天皇以前の記事はどのように構成されたのか、今回考察してみたい。

記紀をそのまま読む限り、いったん近畿に移ったストーリーがいきなり九州に移動してしまうのが、景行・成務・仲哀・応神天皇の記事である。前に述べたことがあるが、近畿と九州を同一政権が支配するのは戦国時代以前にはそう簡単なことではない。ましてや古代に、そう簡単に九州と近畿を行き来できるものではない。

「古事記」と「日本書紀」は、日本古代の説話の中からときの政権(天武・持統朝)に関係の深いものを集めて、系統付けたものである。「日本書紀」は対外的な宣伝の意味もあってより洗練された構成となっており、成立の早い「古事記」の方が原型に近いと考えることができる。

そして、「古事記」は3部構成となっている。第一部(上巻)はイザナギ・イザナミが日本列島を創造してから、神の子孫が列島に降臨する物語。第二部(中巻)はイワレヒコ(神武天皇)が大和を占領して、その子孫がこの地を治める物語。第三部(下巻)はオオサザキ(仁徳天皇)が近畿を平定して、その子孫がこの地を治める物語である。

さて、特に近畿の支配者にとって、これらの物語群は自らの権威を正当化するために必要なものであった。天皇だけでなく豪族たちの祖先も、すべて天皇家の血縁と位置づけられているからである。逆に、近畿の支配者にとってあまり関係がないと評価された説話については、記紀にとりあげられていない、もしくは比重が低いものとなっている。

例えば、富士山に関する説話が記紀にはほとんどみられないというのはよく指摘されるところである。九州と近畿を同時に勢力下に置いていたならば身近なはずの、瀬戸内海に関する記事もあまり多くはない。そして、記紀の最大のヒーローの一人でもあるヤマトタケルも、特に古事記においてはあまり比重は置かれていないのである。

さて、古事記上巻の最後の方に、海幸彦・山幸彦の話やトヨタマ姫、コノハナサクヤ姫の出産物語が出てくる。これらの説話は天皇家の先祖の話であるとされているものの、必ずしも血縁である必要はなさそうだし、そもそも権力の正当性とあまり関係がない。

また古事記下巻では、仁徳天皇一族が滅亡してしまった後、遠い血縁(仁徳天皇の父・応神天皇の六代孫)の継体天皇が支配者となるが、その後推古天皇に至るまで天皇名を記すだけでほとんど記事がない。遠い血筋には違いないだろうが、仁徳天皇一族とはほとんど関係ないということが示唆されているようでもある。

私は古事記中巻も、それと似たような経緯で構成されたのではないかと思っている。つまり、歴史書としてまとめる以上割愛はできないが、近畿の支配者層とはなじみが薄く、前段で述べられている神武天皇一族とは直接の関係がないという点で、上巻・下巻の後半部分と同じではなのではないか。



7.0.2 景行天皇の本名はオオタラシヒコ=大王

古事記中巻の後半部分を読む際、そもそも古事記成立時点で天皇の謚号(しごう/おくりな)はなかった点に留意する必要がある。だから、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇というとピンとこないが、オオタラシヒコ、ワカタラシヒコ、タラシナカツヒコと本名で並べれば、この3天皇は非常に近い関係にあるのではないかと推測されるのである。(ここでは深入りしないが、隋に使節を送ったアマ・タラシヒコとも近いのではないかと考えられる)

現代風に訳すと、大王、若王、中王ということになる。名前を見る限り大王・景行天皇が最大の支配者であり、若王はその後継者、中王は次の大王との間の中継ぎ王ということになるだろう。そして、大王・景行天皇の皇子は全部で80名以上いて、それぞれ国造・県主(くにのみやつこ・あがたぬし)になったと書かれている。まさに大王の名にふさわしい貫禄である。

ところが古事記には、景行天皇自身についての業績がほとんど書かれていないのである。古事記で景行天皇の章に書かれているのは、ほとんどヤマトタケルについての記事である。ヤマトタケルとはすぐれた征服者であったことから敵である熊襲(くまそ)から贈られた称号で、景行天皇の息子の一人である小碓命(をうすのみこと)が本名とされている。

ヤマトタケルは天皇の命により、熊襲から出雲、吉備、伊勢から東国と転戦し、最後は鈴鹿山脈で力尽きた。そして、「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし」と望郷の歌を作った後に亡くなったとされる。少し後に編集された日本書紀には景行天皇自身の説話(九州征伐)が述べられているが、古事記には書かれていない。

これは妙な話である。オオタラシヒコ=大王と呼ばれる王がいるのに、その説話の優先度は低く、息子である現地司令官の説話の方が優先度が高い。そしてその息子は父王の後継者ではなく、行軍の途中で故郷を思いながら亡くなる。80人の息子というからには数十年の治世で少なくとも二、三十人の妻妾がいただろうに、それにまつわる説話がない。

ここで推測されることは、確かにオオタラシヒコ=大王と呼ばれ日本列島を勢力下に治めた支配者がいて、その大王は多くの息子を地方に派遣して勢力を拡大したかもしれないが、その大王は近畿・大和朝廷とあまり近い存在ではない。後にまとめられた日本書紀には大王自身が九州全土を征服した記事があるが、まさに「とってつけた」ような印象である。

つまり、大王と呼ばれる存在は知られていたけれども、その業績や生い立ち、エピソードなどはあまり知られていなかった。ないし、記紀の作者達(近畿政権) には身近なものではなかった。ここから導かれる仮説は、オオタラシヒコ=景行天皇は九州の大王であって、近畿を直接支配した王ではなかったのではないかということである。

大王、あるいはその後継者にもかかわらずたいした説話が残されていないという特徴は、ワカタラシヒコ=若王、タラシナカツヒコ=中王についても同様である。成務天皇、仲哀天皇とも業績についてほとんど語られていない。仲哀天皇に至っては、皇后と大臣に殺されてしまうのである。



7.0.3 オオタラシヒコ=景行天皇説話の原型を考える

景行天皇が九州の王であったという仮説には、一つの傍証がある。

先に成立した古事記においては、景行天皇は纏向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)で天下を治めたと書かれている。纏向とは、奈良県桜井市とされているが、これは先代の垂仁天皇が師木に都を置いたとされ、師木は神武天皇以来縁のある桜井市の地名であることから、同様にその近くと推定したものと考えられる。

さて、古事記では景行天皇の后妃と子供たちについて概略を述べた後、すぐにヤマトタケルの説話に移る。天皇自身がどこに都(本拠地)を置こうと、息子である遠征軍司令官は天皇の命令一下、日本列島のどこにでも行く可能性があるから、古事記の記事は不自然ではあっても違和感はない。

ところが、後から成立した日本書紀ではヤマトタケル説話の前に、景行天皇自身の九州征服説話が含まれている。これは記録として自然なのであるが(ということは事実に近い)、そうすると今度は違和感がある。奈良県に本拠を置く天皇が、なぜ大分、宮崎、熊本を平定するのだろうか。

日本書紀では、「熊襲が朝貢せず命令に従わないので遠征した」と書かれているが、何度も言うようにこの時代に、近畿から九州まで遠征軍を編成するのは容易ではない。大王がわざわざ本拠を移して進軍するには遠すぎるのである。ましてや、伊勢や吉備など近場ではなく、遠く瀬戸内海を越えた九州である。

あまりに違和感があるので、日本書紀では「筑紫に行幸した」とされている。このことは、古事記には書かれていない。景行天皇説話を無理やり入れたための苦しい言い訳なのである。もし、本当に奈良から福岡に一時的に遷都したとしたら大事業なのだが、そのあたりの経緯については書かれていない。

これらの事柄を常識的に考えるとすれば、以下のようになるだろう。

景行天皇=オオタラシヒコ説話はよく知られていたが、それは筑紫を本拠とする政権の説話であることが前後関係からみて明らかなので、古事記には採られなかった。しかし、大王説話がないのはどうみても不自然なので、日本書紀には採用した。すると今度は、舞台がいきなり九州となり違和感のあるものになってしまった。

つまり、大王説話はもともと九州政権の説話であって、記紀の編さん者である近畿政権の人々にとって身近なものではなかった。一方で、列島各地に残っているヤマトタケル説話は残しておく必要があると考えた。だから、古事記の景行天皇の項が妙な構成になっているのではないか。

(一つの可能性として、古事記編さん当時[天武天皇時代、673-686]は、九州政権説話がタブーだったことも考えられる。白村江敗戦[663]からほとんど時間が経っていないからである。)

いずれにしても、景行天皇が近畿の大王だったとすれば、その説話の舞台が九州であることの合理的な説明がつかない。せいぜい日本書紀のように、九州に一時的に遷都したとするくらいなのだが、そう説明することは、「もともと九州に別の政権があった」ということと裏表というくらい近いのである。



7.0.4 仲哀天皇説話は実際にはオキナガタラシヒメ(神功皇后)説話である

さて、次のワカタラシヒコ=成務天皇についてはいったん置き、その次のタラシナカツヒコ=仲哀天皇について考えてみたい。

まず仲哀天皇は、先代の成務天皇ではなくヤマトタケル=小碓命(をうすのみこと)の子であるという。考えてみれば妙な話で、80人の皇子皇女がいたとされるオオタラシヒコ=景行天皇の後を第一皇子であるワカタラシヒコが継ぎ、その皇子が若くして子孫を残さずに亡くなったとすれば、次の後継は残る弟の中から選ばれるのが自然だが、そうなっていない。

確かに記紀をみるとヤマトタケルの功績は抜群なので、その子孫が天皇となってしかるべきと読者に思わせる流れはあるのだが、よく考えればヤマトタケルは地方遠征の司令官であり、中央政界に地位を築いていたとは考えにくい。その点は百歩譲ったとしても、タラシナカツヒコ=仲哀天皇はヤマトタケルの息子とは思えないほど、うかつな天皇なのである

古事記におけるタラシナカツヒコ説話のほとんどは、実際にはオキナガタラシヒメ=神功皇后説話である。仲哀天皇は、皇后であるオキナガタラシヒメと大臣の建内宿禰(たけのうちのすくね)と神託の最中に崩御したと書かれているのである。そのあらましは以下のとおりである。

オキナガタラシヒメが神がかりとなり、「そなたに西の国を差し上げよう」と神託を下したところ、天皇は「西を見ても海しか見えない。この神は嘘つきである」と応えた。建内大臣が、「神の怒りに触れるので、そういうことは言わない方がよろしいのではないか」と言うと、すでに天皇は亡くなっていたという話である。

この後、オキナガタラシヒメはお腹に子供(後の応神天皇)がいるにもかかわらず、縦横無尽の活躍をして朝鮮半島を征服するのだが、それはそれとして、神託事件を常識的に考えれば、路線(おそらくは対外進出の是非)の対立から現権力者と后妃・大臣の間に対立があり、権力者の方が暗殺されてしまったということになるはずだ。

そして、第9代開化天皇の子孫というオキナガタラシヒメがなぜ「皇后」なのか、よく考えればおかしい。仲哀天皇の第二夫人はオオナカツヒメといい、天皇とはいとこの関係になるのだが、そうだとすれば大王オオタラシヒコ・景行天皇の血筋であり、こちらが皇后であってしかるべきである。

そう考えると、オキナガタラシヒメが朝鮮半島遠征の余勢を買って、オオナカツヒメの息子である香坂王・忍熊王を討ったという説話も、真相は違ったのではないかという疑いが生じる。本来、正統な継承者である先代の皇子を、巫女上がりの第二夫人が攻め滅ぼしたのではなかったか。

[追記 うろ覚えなのだが、朝鮮半島の史書に「倭王と太子がともに死去した」という記録があったと思うのだが、残念ながら見つからない。そうだとすれば、仲哀天皇・後継者が一度に滅ぼされたことの傍証となるかもしれない。一応ここに記録しておき、時間ができたら調べてみたいと思う。]



7.0.5 業績を記録していないワカタラシヒコ=成務天皇の意味

話は戻って、仲哀天皇の先代、成務天皇について考えてみる。この天皇について記紀の記載が不審なのは、「ワカタラシヒコ」という堂々たる名前を持つ天皇であるにもかかわらず、古事記には業績について全くといっていいほど記載がなく、日本書紀にもほとんど書かれていないことである。

記紀、特に日本書紀の編者が中国側の記録を参考としていることは明らかで、前回述べた神功皇后の記事では、全く年代が合わないにもかかわらず、卑弥呼の記事から倭の五王の記事からすべて引用した構成となっている。だから、何か書こうと思うのなら中国側の史料から引用することは可能だったはずなのに、なぜかそうしていない。

考えられる理由は、日本書紀では5世紀以降の存在と考えられる神功皇后を3世紀の卑弥呼にしてしまったため、5~6世紀の倭の五王を神功皇后より古い成務天皇にすることができなかったということであるが、だとすれば業績もよく分からない天皇を歴代に加えなくてもよさそうなものである。

私が考えるに、ヒントはそのあたりにありそうである。ワカタラシヒコ=成務天皇は近畿政権にとってなじみのある支配者ではなかったが、省略することはできなかった。ワカタラシヒコは中国側にとっては著名な王であると記紀の編者が考えたから、歴代天皇に加えざるを得なかったというのが理由なのではなかろうか。

オオタラシヒコ=景行天皇以降、九州を拠点とする天皇の物語は、まさに九州を拠点として中国・朝鮮半島と接触していた権力者、つまり倭国についての記事を下書きとして作られた物語であって、もともと近畿政権とはあまり関係がなかった。だからワカタラシヒコ=成務天皇の業績もよく分からなかったというのが真相のように思われる。

さらに言うと、景行、成務、小碓命(ヤマトタケル)、仲哀、応神の古事記中巻後半の登場人物は、倭の五王を意識したもので、古事記を読んだ中国人(ないし、中国史書を理解している読者)に、5~6世紀の南朝にたびたび使節を派遣した倭王の後継者が近畿大和朝廷であると主張するために創作されたものであると考えられる。

だから、ほとんど業績について記紀の編者に書くことができないワカタラシヒコ=成務天皇についても、省略することはできなかったのである。また、日本書紀で神功皇后が独立した章となっている理由も、このあたりにありそうである。景行、成務、仲哀、神功、応神を倭の五王と認識させようとしたのではないか。

さて、そうなると古事記中巻最後の登場人物であるホムダ王=応神天皇の位置づけが問題となってくる。というのは、応神天皇は成務天皇と同様に、天皇自身の業績や説話が古事記にほとんど書かれていないからである。



7.0.6 応神天皇の特殊性

さて、古事記について考察した際述べたように、古事記中巻ではイワレヒコ神武天皇が、下巻ではオオサザキ仁徳天皇がそれぞれ主役となっている。ところが、天皇制が確立した後、他に抜きん出て尊重されている天皇は、神武でも仁徳でもなく応神天皇なのである。

まず第一に、仁徳天皇一族が滅亡した後に後継者となった継体天皇=ヲホドノミコトは、自らが後継者である根拠として「応神天皇の子孫(五代孫)」であることをあげている。

確かに、仁徳天皇の子孫は一族の間で壮絶な殺し合いをして、結果として後継者がいなくなってしまった。とはいえ、四代も前から近畿を地盤としている仁徳天皇の男系血縁者が全くいないというのは考えにくい。そして、天皇位が確立してからせいぜい二、三百年しかたっておらず、血縁関係のない豪族が後を襲っていてもおかしくない。

ところが、実際には近畿政権の豪族でなく北陸から継体天皇を迎えた。これは、日本人の傾向として考えられることではあるけれど(権力の頂点に血縁カリスマのある人物を置くと安心する。いまでも、宗教、政治、芸能などいくらでも例をあげられる)、半面では、五代前(祖父の祖父の時代・少なくとも100年前)の応神天皇の権威でみんなが納得したということである。

第二に、奈良時代末同じように後継者がいなくなった際に、やはり応神天皇が登場するのである。称徳天皇が皇位を高僧・道鏡に継がせることを計画した際、神託を出したとされるのも、和気清麻呂が確認に行ったのも宇佐八幡宮である。宇佐八幡は全国の八幡宮の総本山で、八幡神とは応神天皇のことなのである。

宇佐八幡神託事件は769年に起こっている。応神天皇や継体天皇が正確にいつ天皇であったのかは不明であるが、古墳時代であれば4~6世紀になる。現代からさかのぼれば江戸時代の前半か後半かの違いであり、経緯が全く不明になってしまうほど昔のことではない。今でも、江戸時代の大名や旗本の子孫が誰かというのは明確であるし、江戸時代後半に興った信仰が、いまだに新興宗教と言われるくらいである。

このように、天皇位の後継問題が発生すると必ず引き合いに出されるのが応神天皇なのである。そして第三に、後に天皇に代わって政権運営を担うことになる武士階級の総本家である清和源氏が、守護神として戴いたのも八幡神・応神天皇なのである。

清和源氏と八幡神の関係は、「平家物語」の屋島の戦いなどで有名であるが、平安時代中期にすでに始まっている。応神天皇の時代から約500年、それ以降、仁徳天皇、雄略天皇、聖徳太子、天智天皇、天武天皇など記紀を信じるなら神格化されて然るべき天皇・皇族は他にもいるはずなのに、なぜ応神天皇でなければならないのか。

また、日本の歴史上、神格化された人物として役小角、空海、菅原道真、徳川家康などがあげられるが、いずれも皇室ではない。また、皇室関連では天照大神はじめ大国主命、日本武尊、神武天皇などが祀られた神社はあるけれど、日本全国津々浦々で崇拝されている訳ではない。その意味でも応神天皇は別格なのである。

(やや近い皇室関係者として聖徳太子があげられるが、太子の場合は仏教伝来時の功績者としての意味合いが強く、神道的見地では応神天皇に及ばない。)

しかし、その天皇が具体的にどのような功績をあげたかということになると、記紀の説明は非常に心細いのである



7.0.7 古事記中巻後半の性格

前回述べたように応神天皇=八幡神の権威は天皇家歴代を上回るものであるにもかかわらず、天皇自身の業績は記紀にほとんど書かれていない。これは、研究者が共通して認めるところであり、過去には応神天皇の実在自体が疑われたこともある。

記紀の応神天皇の項に書かれているのは、母親である神功皇后の説話と、子供である仁徳天皇の説話である。また神功皇后の説話は、要約すれば先代天皇であり夫でもある仲哀天皇を暗殺(!)したことと、朝鮮半島に進出したことである。また仁徳天皇の説話は、近畿地区において仁政をひいたことと、各地にいた女性達との物語である。

つまり、近畿圏にいた記紀の編者達は、応神天皇とは先代の王から政権を奪取したことと、その後に近畿を治めた仁徳天皇の父である以外に情報をほとんど持たなかったということになる。もちろん、全国的・対外的にみれば応神天皇の権威は歴代の天皇の中でも抜きん出たものであったから、後世の後継争いにおいて登場することになる。

私は、九州や関東の金石文に残っているワカタケル大王、中国史書に書かれている倭王武をモデルとして応神天皇が造形されたと考えているが、いかんせん判断の材料が少なすぎる。ただし少なくとも、応神天皇の業績について知らなかった(書くことのできなかった)近畿圏の支配者ではなく、九州にいた天皇であることは間違いないと思っている。

これまでの古事記中巻後半についての考察をまとめると、以下のとおりである。

1. 景行天皇以降応神天皇までの天皇は、舞台が唐突に近畿から九州に移るなど、それ以前の天皇との連続性が認められない。また、古事記下巻の主人公であり近畿地区を実際に治めたとみられる仁徳天皇に対し、その父である応神天皇の業績がほとんど書かれていない点も不自然である。

2. 業績がほとんど書かれていないという点においては、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇も同様である。つまり、彼ら九州地盤の権力者達について、近畿にいた記紀の編者達がほとんど知識を持っていなかったということである。

3. にもかかわらず、天皇家歴代に景行天皇以降を含めなければならなかったのは、オオタラシヒコ=大王の名前で呼ばれるように日本列島におけるカリスマ的権威を持っていたことが一点と、もう一点は中国史書において倭の五王として登場するなど、体外的に知名度を持った支配者であったことによると考えられる。

4. 一方で、近畿地区においては彼ら九州の支配者達の伝承はほとんど残っておらず、実際に近畿地区を治めた仁徳天皇一族の伝承は数多く残されていたことから、古事記下巻は仁徳天皇一族の物語となった。ただし、日本列島全体というレベルでは、景行天皇をはじめとする大王の存在の方がずっと大きく、後世に応神天皇が抜群の存在感を示したのも、実際に日本列島を支配したのは九州政権だったからと考えられる。

記紀の編者たちにとって、連続性を重んじるのであれば九州を舞台とする天皇達については書きたくなかったであろう。しかし、それを書かなければ全体の流れに齟齬をきたすことになる(例えば、なぜ継体天皇が登場したのか説明がつかない)。結果として、彼ら(大王)が九州にいたと書かざるを得なかったが、一方で個人的な業績についてはよく知らないので書けなかった。

古事記中巻後半の性格は、以上のように考えるのが妥当ではないかと思っている。



[Feb 23, 2011]