橿原神宮
神武天皇が即位したとされる橿原。畝傍山麓に広がる立地は、古代政権の発祥した地域にふさわしい。(個人撮影)
5.1 虚像の天智天皇
5.1.1 大和朝廷の日本列島統一は天武天皇の時期
ここまで日本古代史について中国史書を材料として検討してきたが、これまでの分析をもとに、普通に考えると古代日本はどのようであったのか、私の仮説をご説明することとしたい。それは、「大和朝廷による日本統一は7世紀後半、天武天皇の時代である」ということである。
学校で習ってきた歴史では、大和朝廷による日本列島統一は4~5世紀、古墳時代のこととされてきた。その根拠となっているのは、古事記・日本書紀という大和朝廷の責任編集による歴史書である。
これらが編集された時期はいつかというと、712年の古事記完成、720年の日本書紀完成に先立つ数十年間である。この時期に大和朝廷が日本を代表する政権であったことは認めていい。では、それ以前の時代についても同様に認めていいのだろうか。
前にも述べたように中国の正史「旧唐書」には、「日本はもともと小国であり、倭の地を併合した」とある。これをそのまま読むならば、大和朝廷はもともとあったけれども、倭を併合して日本列島を統一したのは唐の時代に入ってからと理解するのが自然である。(そもそも、「倭国伝」と「日本国伝」が別にある)
もともと「古事記」や「日本書紀」が編さんされた目的そのものが、「われわれ大和朝廷が、日本列島を支配する唯一正統な政権である」ということを主張するためだった。これは、多くの識者が主張するところである。実際、中央集権的な統一国家ができて、その正統性を将来に向けて維持しようとするならば、こうした形の文書を内外に向けて発表するというのは十分考えられる。
しかし、天武天皇の時代まで大和朝廷による日本列島統一がなかったとすれば、問題になるのは絶大な権力を持っていたとされる二人の皇族である。
その一人は聖徳太子。ただし、隋書東夷伝の解説の中で述べたように、隋に「無礼な国書」を送ったのは倭王アマ・タリシヒコであって聖徳太子ではない。そうなると、実像としての聖徳太子の実績は主に仏教の興隆であって、地方政権の実力者という大枠を外れるものではない。
もう一人は、天智天皇、皇太子の時の名は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、有名な大化の改新の立役者である。この天皇こそ、唐・新羅と対抗した日本側の最高責任者であった、とされている。
このあたりの時系列を示すと以下のようになる。
西暦645年 大化の改新(天智天皇、政権を掌握)
同 663年 白村江の戦い(倭・百済連合軍、唐・新羅連合軍に大敗)
同 672年 壬申の乱(天武天皇、政権を掌握)
東アジア全体を揺るがす大事件であった白村江の敗戦が、当事者である天智天皇の政権にほとんど何の影響も及ぼすことがなく、約十年後に直接そのこととは関係ない内戦で、天武天皇に政権が移ったというのが、教科書の教える歴史である。
私は、そんなことはありえないと考えている。以下ではまず、天智天皇とはいったいどういう業績を残した天皇なのかを考察してみたい。この天皇、おそらく相当に脚色されているであろう日本書紀の記事だけみても、かなりおかしなところがあるのだ。
5.1.2 天智天皇は、天皇としてはゼロ査定
天智天皇、または中大兄皇子は、教科書による日本史においては古代日本を代表する権力者の一人といっていいだろう。
この天皇は、皇室をないがしろにした蘇我氏を大化の改新で討ち取って実権を掌握し、天皇親政の基盤を固めたとされる。しかし、実際にどのような業績があったよく検討してみると、ほとんど何もしていないと言わざるを得ないのである。
大和朝廷責任編集の日本書紀が、ほとんど唯一、天智天皇の業績の裏付けとなる史料である。その書紀でさえ、西暦661年7月に斉明天皇が崩御してから始まる「天智天皇紀」のほとんどの記事が、朝鮮半島の動乱と白村江(はくすきのえ)の戦い、その戦後処理について書かれている。
その記事も、天智天皇の行ったことは「誰々を△△に遣わす」といった内容である。この時期、朝鮮半島から近畿までどんなに急いでも往復1ヵ月はかかる。わずか数年の間に高句麗、百済が滅亡し、新羅が唐の援護を背景に朝鮮半島を統一するという状況で、いちいち最高司令部のある近畿まで指示を仰ぐなどという悠長なことをしていたとは考えられない。
つまり、仮に日本書紀の記事が本当だったとしても、実質的に朝鮮半島の有事にあたって日本側の意思決定をしているのは現地にいる遠征軍である。そして、形式的には部隊を派遣した天智天皇の業績であるというのが日本書紀の主張だが、私はそれは怪しいと考えている。このことについては、また改めて検討してみたい。
いずれにせよ、白村江の戦いは完敗であり、遠征軍はほぼ全滅、支援していた百済は滅亡、数百年にわたる悲願であった朝鮮半島の利権回復がこの時点で絶望となったのだから、天智天皇の業績としてはゼロ査定である。
そのゼロ査定の天皇が、なぜ英雄視されるのか。それは皇太子時代に自らが関わって成し遂げた大化の改新によるということになるのだろう。しかし、この大化の改新も、考えてみればかなり妙な話なのである。
5.1.3 大化の改新の歴史上の意義も疑問
それでは、「大化の改新」が歴史上どういう意義があったのかを改めて検証してみよう。
まず、政治の実権が蘇我氏から天皇家に回復されたということについて、意義があったかどうかは何ともいえない。少なくとも、当時最大の政策課題であった朝鮮半島への進出(百済支援)に失敗したのだから、天皇家が実権をとったから良かったとはいえない。(蘇我氏が政権を維持していたらどうだったのかが分からないので、悪かったともいえない)
それ以外ではどうだろうか。まず皇位継承については、大化の改新後、皇位は皇極天皇(中大兄=天智天皇の母、つまり女帝)から孝徳天皇(天智天皇の叔父)に移った。ところが、この孝徳天皇が亡くなった後、次の天皇となったのは再び皇極天皇(重祚して斉明天皇)である。つまり、せっかく変えた体制を大化の改新前に戻したということになる。
ちなみに、孝徳天皇は都を難波に移し、その子である有間皇子は斉明天皇の時代に謀反の疑いで死刑にされているので(無実の罪であったらしい)、この前後の事実関係について日本書紀をそのまま信用するのはかなり危ない。少なくとも、この時代に激しい権力闘争があったということは間違いないと思われる。
いずれにせよ、皇極(斉明)天皇+中大兄皇太子という関係は大化の改新前後で変わっておらず、その体制が結局白村江の戦いまで続くことになる。つまり、皇位継承については、大化の改新があってもなくても同じだったということになる。
また、中央集権国家の確立という点については、大化二年に出されたとされる改新の詔(みことのり)自体が日本書紀の建前(創作)の意味合いが強く、実際には大宝律令以前に中央集権体制ができていた確たる証拠はない。例えば、行政組織で国の下に来るのは改新の詔では「郡」のはずなのに、それ以降も「評」という記録が多く残されていることは、よく知られている(郡評論争)。
そして、最初の元号とされる「大化」、これもかなり疑わしいこととみられる。日本書紀によると、「大化」「白雉」の後、再び「斉明天皇元年」になってしまう。元号が継続的に使われるのはおよそ半世紀後の701年、文武天皇時代の「大宝」からである。さらに、日本書紀に記録されていない多くの元号が存在するという問題もある。このことについては、後に述べたい。
つまり、8世紀にはいって継続された元号として最初の「大宝」があり、中央集権国家の基本法としての「大宝律令」ができたということになる。「大化の改新」で行われたとされていることは、実はずっと後の時代に行われていた可能性が大きいのである。
大化の改新について確実にいえることがあるとすれば、蘇我氏から中大兄皇子=天智天皇に実権が移ったということだけであって、そのこと自体良かったとも悪かったともいえない。そして、改新の成果といわれることの多くは、後の時代(8世紀)のものである。これらのことから、大化の改新そのものの歴史的意義は必ずしも明確であるとはいえない。
天皇としての業績はゼロ査定、大化の改新もあまり意味がないということになると、それではなぜ、天智天皇の業績が過大評価されてきたのだろうか。
5.1.4 天智天皇が重視される理由
天智天皇がなぜ重要視されるか、その表向きに最大の理由は、最終的に天皇位を継承したのが天智天皇の子孫だったからである。
皇位継承にあたっては、「男系男子の皇族が継承する」ことが原則であり、現在の皇室典範にもその考え方は受け継がれている。ところが、この原則どおりに継承されなかったのが6~8世紀である。
推古天皇、持統天皇、皇極(斉明)天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙(称徳)天皇と、33代から48代の16代の天皇のうち、半数の8代が女帝である(明治以前には39代弘文天皇が歴代に含まれていなかったので、そうなると過半数になる)。ちなみに、推古天皇以前に女帝はいないし、称徳天皇以降は約850年後の明正天皇まで女帝はいない。
そして、49代弘仁天皇以降のすべての天皇が、天智天皇の子孫である。だとすれば、たとえ自ら皇太子・天皇であった時代に大きな業績を残していなかったとしても、後世の人からすれば「大きな業績をあげた天皇であった」と持ち上げなければおさまりがつかない、ということは当然考えられる。
しかし、ここに一つ問題がある。日本書紀が編纂された8世紀初めには、天智天皇の男系子孫が皇位を継承することは確定していなかったのである。この時代、皇位を継承するとみられていたのは天武天皇の男系子孫であり、天武天皇は天智天皇の弟とされている(これはかなり疑問であると考えられるが、ここでは深く追求しない)。
確かに、この時点の天皇(元明・元正)は天智天皇の娘にあたるので、あまり悪く書くことはできない。かといって、必要以上に持ち上げることもなさそうである。
となると、もう一つの理由をとりあげなければならない。この時代の最高権力者は、藤原不比等であるが、この人物、表向きは藤原(中臣)鎌足の子ということになっているものの、実は天智天皇のご落胤ということが非常に古くからいわれているのである。
どのくらい古くからかというと、平安時代末の「大鏡」にすでにこの説が述べられている。大鏡を単なる説話集とみるのは間違いで、律令時代の国史が日本書紀以降三代実録までの六国史、58代光孝天皇までで止まっていることを受けて、それ以降のできごとを述べているのがこの大鏡なのである。
大鏡の中には、55代文徳天皇から68代後一条天皇までの帝紀(天皇の記録)が書かれているが、それ以上の分量と熱意が、藤原氏各代の大臣・摂関の記録に割かれている。そして、その藤原氏栄華の根拠の一つとして、藤原不比等が天智天皇のご落胤であったから、と述べられているのであった。
奈良時代末、自分に反対する者を次々と粛清した上、最終的に血縁関係のない僧・道鏡に帝位を譲ろうとしたことで評判の悪い称徳天皇が亡くなった後、ほとんど陰謀に近い形で天智天皇の子孫である弘仁天皇を擁立したのが、不比等の子孫である。そして、天智系の天皇の権威を背景に、藤原氏が権力を独占する過程が平安時代ということになる。
つまり、日本書紀の時代には、天智系の女帝とご落胤と噂される藤原不比等にはばかって、天智天皇のことをあまり悪くは書かなかった(しかし、よく読むとあまりいいことは書いていないという結果になった)。そして、平安時代以降は現・天皇の直系祖先であり、もしかすると最高権力者・藤原氏の祖先でもあるということで神聖視されることになったというのが、天智天皇評価の歴史ということになるのではないだろうか。
結論としては、聖徳太子と同様、天智天皇も日本列島を統一した中央集権国家の王者と認定することはできない、ということである。つまり、天武天皇において初めて日本列島が統一されたという仮説をくずす証拠にはならない。
ここでお断りしておきたいのは、天智天皇は古代における中央集権国家の王者とはいえないということであって、彼の存在に大した意味がないと言っているのではないということである。むしろ、古代を倭から日本に差し替えた立役者が天智天皇であると考えている。
このことは、日本書紀でなぜ天智天皇のことを過大評価してあるのかというもう一つの理由、そして天武天皇がなぜ天智天皇の弟という疑わしいことが書いてあるのかという理由とも関係するのだが、そのことはまた章を改めて述べてみたい。なぜならば、そのことは当時の東アジア情勢の分析抜きには、検討することができないからである。
さて、ここでいったん日本列島を離れて、7世紀における朝鮮半島情勢について検討してみたい。
[Apr 2, 2009]