広開土王碑
高句麗・広開土王が倭国を撃退したことを記念して建てられた石碑。現・中華人民共和国吉林省に所在。(拓本)
出典:Wikipedia
6.0 日本古代史の真相
6.0.1 古代日本史へのアプローチ ~経済的側面から考える
これまで、8世紀初めまでの日本古代史の各論について検討してきた。教科書の教える歴史は、まず大和朝廷が列島を統一して、それから中国・朝鮮半島との交渉があり、大化の改新から壬申の乱を経て、奈良平城京の完成をもって律令国家が完成したというものであるが、この展開にはかなりの無理がある。何度も繰り返しになるが、当時の中国史書の内容と一致しないし、根拠とされる日本書紀の記載にも矛盾がある。したがって、日本古代史の真相は、そうした教科書的ストーリーとは違ったアプローチから構築されるべきであると考えている。
その出発点となるのは、まず古代日本列島において、いつ経済的余力が発生したかという観点ではないかと思う。常識的に考えて、余剰生産物のない場所を征服したとしても、得るものはほとんどない。奴隷(労働力)として収奪したとしても、彼らに食べさせるものがなければ労働力として機能しない。そして、余剰生産物がなければ、貯蓄もない。強奪すべき収穫物も、占拠する建造物もないのである。
すべての人がぎりぎり食べていくだけの経済力しかなければ、人口も増えないし、軍隊も整備できない。仮に軍隊を組織して他国の占領を目指したところで、どこに攻めて行ってもみんな「食うや食わず」の経済水準であれば、征服者にとってあまり魅力的とはいえない。
となると、どの時代ならば日本列島に統一的な政権が成り立つだろうか。
日本書紀を信用すれば紀元前660年ということになるが、言うまでもなくこれは論外である。中国の首都に倭の使節が訪れたことを史書で初めて確認できるのは後漢時代、紀元1世紀である。それまでの700年間、倭国には長距離を移動するだけの輸送手段も経済的余力もなかったということである。
輸送手段と経済的余力があった場合、物資が豊富で文化水準が進んだところに行こうとするだろうか。それとも、物資が乏しく文化水準の低いところに行こうとするだろうか。もし自分達の物資が十分でなく文化も進んでいないと思っていたならば、先進地域に行こうとするのではないだろうか。つまり、洛陽に朝貢に行った時点では、列島の先進地域にとって、後進地域に向かおうという意欲はあまりなかったと考えられる。
おそらく古代日本において、経済的な余力が生まれた時に最初に行こうとしたのは中国もしくはその出先機関であったはずである。そこには、先進工業製品である繊維製品や鉄製品、青銅製品、装飾品などがあり、後進国である倭国の権力者にとって、それらは魅力的だったはずだからである。
さて、日本列島においてはっきりとした経済的余力を確認できるものは何か。古代の建築遺跡(三内丸山古墳等)にも巨大なものがあるが、相当の経済力を要することが明らかなのが巨大古墳であることは多くの方々に同意いただけるだろう。
断定的な言い方になるが、古墳時代以前には日本列島統一を可能とする経済的余力もなく、そもそも統一するメリットもなかった。結論を先に述べてしまうと、経済力の向上とともに日本各地を実効支配していた政権が集約されていき、最終的に大和朝廷に統一されたのが律令国家であると考えるのが最もつじつまの合う推論であると考えている。
6.0.2 国家を形成するモチベーション
朝鮮半島においては、長い間、文書で歴史を記録するということがなかった。これは、古くから中国の出先機関として発展した地域であることから、朝鮮半島の歴史も中国正史に記録されるべきものという考え方であったものと考えられる(実際に、朝鮮半島の歴史について東夷伝に書かれていることも多い)。
朝鮮半島最古の通史とされる三国史記は12世紀の高麗時代に作られており、実際に事件があったとされる時代から古いもので900年以上経過してからの記事である。その信憑性に疑問が付されているのも無理もないのかもしれない。
とはいえ、中国において紀元前から正史が残されていることからして、その出先機関のあった朝鮮半島で全く記録がなかったとも思われない。正史という形に整っていないだけであって、内容についてはほぼ事実に近いものと考えている。少なくとも、大和朝廷の正当性を主張することが目的の日本書紀よりも、事実をそのまま述べた部分は多いだろうと思われる。
さて、その三国史記において、倭国が古代朝鮮の三国、百済・新羅・高句麗と再三にわたり戦火を交えていることが書かれている。広開土王碑の金石文でも確認できることから、4~5世紀に倭国が朝鮮半島に進出したことは確かである。巨大古墳が造られた時期は4~6世紀と考えられているので、ほぼ重なる時期であることが分かる。つまり、4~5世紀に大規模な戦争を行ったり巨大古墳を造ったりする経済的余力が生まれたとみることができそうだ。
どうやって経済的余力が生じたかというと、古墳時代に先立つ弥生時代に、中国・朝鮮半島を経由して大規模な稲作が日本列島でも行われるようになった。同時に、金属器(鉄製品、銅製品)と製作技術が伝えられた。すなわち農業と工業が始まったことにより、経済的な余力が生じたと考えられる。前にも述べたように、稲作と金属器の日本列島への流入は朝鮮半島からの大規模な人口流入によって起こった可能性が大きく、朝鮮半島との戦争記録が多いのも、かつて先祖が住んでいた土地を奪回するという戦いだったのかもしれない。
魏志倭人伝の記録から推定すると、3世紀初めの日本列島の人口は数十万人であったと考えられる。その人口が、100~200年ほどの間に約2百万人まで増加した。相当の経済力向上、言葉を変えればGDPの増加があったということである。江戸時代以降の約150年間、工業化によるGDPの増加により、日本の人口は約2000万人から6倍増加して1億2000万人になったが、弥生後期と現代では死亡率が比較にならないほど違うことから、同じくらい爆発的な経済力向上があったと考えられる。
経済力の向上により弥生人の生活は豊かになったが、逆にこの時点で、他国からすると征服するメリットができてしまったことになる。隣のクニに貯えがあれば、征服することにより自分たちの貯えを増やすことができるし、余剰生産物を食べさせることにより、奴隷として使役することも、軍隊を組織することも可能となる。征服するメリット、言葉を変えれば国家を形成するモチベーションができてしまったことになる。
ちなみに、高度成長期のはざまにあたる奈良時代から江戸時代末の約千二百年間で、日本の人口は2百万人から2千万人まで人口が増加している。10倍は大きく見えるが、100年あたりにすると平均1.2倍程度の増加に過ぎず、これと比べると100~200年で3倍とか6倍という水準がいかに爆発的であったかということが分かる。
この連載のはじめで述べたように、統一国家は「他の国を征服したい」という動機だけで作られるものではない。そういう単純な動機で始めることはできたとしても、長期にわたり占領を続けるためには、収穫物の収奪(納税)システムと、物資の輸送・軍隊の派遣のための交通網・通信網がなければならない。
つまり、一人の権力者のもとに、国として一定規模の版図が成立するためには、そこにある程度の余剰収穫物があって、その余剰部分を集中し再分配するシステムが必要である。ということは、弥生時代以前の日本列島には統一国家が成立する可能性はほとんどないということになる。
ただし、その前段階というものがあったはずである。稲作の普及も金属器の導入も、日本列島全土が同時に果たしたとは思えない。何しろ、通信網も伝達網もない、移動手段の中心は海路であった時代である。1世紀に中国の首都・洛陽まで朝貢に訪れることが可能であった勢力と、その時点でまだ「食うや食わず」だった多くの地域は、その後の弥生・高度成長期から古墳時代をどのように迎えたのだろうか。
6.0.3 2世紀の日本列島で最大勢力は出雲
西暦57年に倭奴国が後漢に朝貢し金印を下賜されたのは、逆に考えればその時代まで日本列島には、先進国である中国に使節を派遣できるような国力がなかったということである。その倭奴国が九州北部であるのは、九州が日本列島で最も早く、大陸の先進文化を吸収できたという地理的要因で説明できる。
その後2世紀になると、「倭国は大きく乱れた」と中国の史書にある。折りしも、弥生時代のさなかである。各地域において余剰生産物を巡って、征服~支配の関係が生じてきたと考えられる。1世紀には九州北部に限られていた金属器の普及地域が徐々に広がり、生産性が向上し余剰生産できる地域が多くなったということである。
この時代、きちんとした道路を作るだけの余力はどこの地域にもなかったはずで、主な輸送手段は海路であった。ということは、九州北部にまず伝わった大陸文化が、ここから日本海沿岸、九州西岸・東岸、そして瀬戸内海と、船による輸送によって日本列島に広まったと考えられる。
イメージとしてはペルシャ湾沿岸からアラビア半島にかけて、油田のある海岸部に沿ってクウェート、サウジアラビア、バーレーン、UAE、オマーン、イエメンと各国が並んでいるように、古代日本列島においても物資の輸送が容易である海岸部に沿って、小国家が並存していたのではないか。繰り返しになるが、余剰生産力のない地域(内陸部)に領土を拡大しても、あまり意味がないのである。
そして2世紀の日本列島において、最大の勢力を持っていた地域は出雲だったのではないか。
というのは日本神話において、オオクニヌシの出雲が治めていた日本列島を、アマテラスの孫であるニニギノミコトが降臨して「国譲り」を受けたことになっており、これはおそらく歴史的な事実を背景としたものと思われるからである。3世紀の邪馬台国から7世紀初めのアマ・タリシヒコまで、中国側では同じ国が朝貢したとみなしており、それ以前で有力国家が成立しうる時期となると、2世紀が最も有力である。
山陰地方は現在、東京から行くのに最も不便な地域の一つであり、先進地域というイメージはないかもしれないが、中国・朝鮮半島から海路ということになれば、九州北部に次いで日本列島の中では便のいい地域である。
そして、弥生時代最大の遺跡の一つである出雲・荒神谷遺跡からは358本もの銅剣がまとまって出土している。銅剣が実際に武器として使用されたかどうかはともかく、この時代に銅は輸入品しかなかったはずなので、弥生時代の出雲が相当の経済力を有していたことは間違いない。
その経済力の背景となったのは、おそらく鉄製品と考えられる。鉄製品は錆びてしまうので、古代のものがそのまま出土することはほとんどないが、この地域では砂鉄が産出されることから、かなり古い時代から鉄製品を製造していたと考えられている。鉄製品は武器にもなれば、農具にもなる。
おそらく、最初は輸入鉄製品の模倣から始まり、徐々に国産化が可能となったのであろう。鉄鉱石から鉄製品にするのはそれなりに技術が必要だが、砂鉄を鉄製品にするのは比較的容易である。鉄製品の国産化は、さらに農業生産性を向上させ、日本列島のGDPを増大させたと考えられる。
出雲は鉄製品というベンチャー産業によって、日本列島の最先端地域となったのである。
6.0.4 神無月はなぜ10月か ~ 出雲が日本列島の中心であった時代
陰暦の10月を神無月(かんなづき)と言うが、出雲ではこの月を「神有月(かみありつき)」と呼ぶ。全国の神様がみんな出雲に集ってしまうので、出雲以外では神「無」月と称するという説があるが、「な」は現代の「の」に当たる助詞で「神の月」を意味するという説もある。陰暦6月は水無月(みなつき)と呼ぶけれど雨量が少ない訳ではないことからすると、おそらく後者の方が正しいようだ。
神無月の意味が「神の月」であったとしても、神様が出雲に集まった月であるという伝承を否定するものではない。そして、そういう歴史的事実は、実際にあったのではないかと考えている。つまり、収穫が終わり寒くなる前に、日本全国から出雲へ、鉄製品を求める人々が集まってきたのではないだろうか。
鉄製農具を使うことにより農業生産性が格段に向上したことは間違いないので、余剰収穫物が生じた地域は、それにより生産設備としての鉄製品を求めただろう。また、購買力を持った人が集まる地域には、他にも地域の特産物(織物や海産物、黒曜石などが当時でも広く交易されたらしい)を交換しようとする人々が集まってきたはずである。
自らは鉄製品という先端工業品を持ち、商取引の中心地にもなった出雲は、日本列島でも随一の経済力を持つ地域となったのである。荒神谷から出土した銅剣は、武器と考えると意味がよく分からないが、これを貨幣と考えると、当時の権力者が鉄製品の製造販売や、市場の提供(特産物交換の“場所代”)により蓄積した財産ではないかという推定が可能となる。
このことは古墳時代の他の銅製品、関西圏の銅鐸や九州圏の銅矛についても同様であるが、これらは後の時代の貨幣、つまり交換可能な購買力と考えるのが妥当ではないか。
つまり、後の時代には個人個人が銅銭を持って市場で商品を購入することになるが、2~3世紀にそれができるのは「国」単位である。だとすれば、銅銭よりも大きな銅製品「銅剣」「銅鐸」「銅矛」が貨幣であったと考えてもおかしくない。銅は当時最も価値の高い金属であったし、「銅剣」「銅鐸」等にすれば秤量も容易になる(見た目で重さの見当がつく)メリットもあったと思われる。
さて、話は戻るがこの時代に、多くの国々にとって収穫は年一回だから、その収穫後の陰暦10月あたりに、出雲で大規模な交易が行われた。そうした伝承が、出雲に年一回神々が集まるという神話となって後の時代に受け継がれたのではなかろうか。
いまでも出雲大社の正殿の周囲には、全国の神々が集まってきて滞在するとされる建物がある。はるか昔の2世紀に、全国から人々が集まってきた名残りだと考えると、壮大なロマンである(当時の「国」は海岸に沿って展開していたと考えられるので、おそらく船を使って移動したものと思われる)。
ちなみに、古代の製鉄法とされるたたら製鉄は、砂鉄や鉄を多く含む鉱石(磁鉄鉱など)を原料として、高温に熱して叩き、不純物を除いた後に成形したらしい。このたたら製鉄が伝承されていたのは、出雲近郊の島根県安来地区である。日本列島最初のベンチャーである製鉄業が出雲でスタートしたという仮説と、非常にリンクしているのである。
そして、いったん入手した鉄製品を違う形に成型したり、壊れたものを修理するのは、最初に原料から作るのに比べて低い温度で可能だし、技術的にも難しくはない。だから、そうした二次加工は日本全国で行われたと考えられる(吉野ヶ里遺跡にもそうした施設と思われるものがある)。
そうした二次加工で製作されたものは、おそらく農機具や生活用品だけではなく、鉄剣や鉄の鏃(やじり)、つまり武器としての鉄製品が含まれていただろう。出雲のベンチャー産業であった鉄製品が全国に広まり、これが武器として成型し直されたことによって、近隣国への侵略、つまり「倭国大乱」につながったのではないか。
6.0.5 国譲り神話の元となった事件とは
日本神話が伝えるところ、古代出雲の覇権を大和朝廷が奪ったのは「国譲り」による平和裏な政権移行であったという。天上のアマテラスの孫にあたるニニギが、日本列島を治めよとの命をうけて地上に降り立ち(天孫降臨)、部下であるタケミカヅチが稲佐浜(いなさはま)において国譲りの折衝をしたと伝えられる(「いなさ」はYes or Noの意味である)。
この際、出雲の王であるオオクニヌシは、子であるコトシロヌシとタケミナカタが応じるのであれば自分は異存はない、と回答した。コトシロヌシとタケミナカタは紆余曲折あったがこれに同意したので、オオクニヌシは自分のために大きな社(出雲大社)を建てることを条件に、ニニギに統治権を譲って身を引いたとされる。
さて、以上が日本神話の伝えるところであるが、中国史書の中で、日本列島において話し合いで政権が移行したことを暗示する記事は一つしかない。魏志倭人伝の示す、次の事件である。
倭国乱相攻伐歴年、乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。
倭国は乱れ、互いに攻撃し合うこと長きにおよび、共に一人の女王を立てることとした。その名を卑弥呼という。
卑弥呼擁立に際し、戦いに疲れた各国は、「共に一女子を立て」王とすることとした。つまり、武力による決着ではなく、話し合いで決めたのである。古代日本において、話し合いによる政権移行が図られたとみなせるのは、この事件だけである。
後の時代の倭の五王は、「祖先は自ら甲冑をまとい休む間もなく」他国を侵略したと誇らかに宣言している。また、隋に使者を送ったアマ・タリシヒコは、天子すなわち先祖代々の王者であると名乗っている。いずれも、話し合いにより権力を握った訳ではない。それ以降も、日本列島の権力者が、武力ではなく話し合いで決まった例など、明治時代まで下らなければ見出すことはできない。
むしろ、近代以前においては、話し合いで権力者を決めることの方が異例といっていい。そして、その事例が、中国の史書と日本の神話のいずれにも登場しており、しかも年代的にも近い。だとすれば、話し合いによる卑弥呼擁立が、オオクニヌシからニニギへの国譲り神話の元になった事件と考えるのは、決して突飛な発想ではない。
6.0.6 九州の覇権
2世紀末に卑弥呼が擁立されてから、7世紀の白村江まで、日本列島の覇権はずっと九州にあったと考える。
以前述べたように、魏志倭人伝の「郡至女王国万二千余里」(帯方郡から女王国まで一万二千里余りである)という記載を否定しない限り、陸行だろうが海行だろうが、邪馬台国は九州北部にしかならない。その後の倭の五王、アマ・タリシヒコいずれも邪馬台国の後継というのが中国側の認識であり、だいいちアマ・タリシヒコの国には阿蘇山があるのだ。
それでは、倭の五王が主張するところの侵略した他国とはどこなのだろうか。これは、おそらく農業生産力の向上(金属器の普及)により3世紀以降に国力を増した「卑弥呼連合」以外の国ではなかったかと考える。その中のいくつかは武力で対抗しようとしたが、その代表格が近畿であり、関東だったのではないだろうか。
イワレヒコ=神武天皇の東征は、常識的に考えると九州政権による近畿への派兵である。イワレヒコが、近畿政権の防衛線である速吸の門(はやすいのと:豊予海峡といわれているが、私は鳴戸海峡か来島海峡だと考えている。海流が急で船団の展開が困難な場所だからである)を突破し、大和盆地を攻略した。そのやり方も「撃ちてし止まん」(皆殺し)である。
まさに、倭の五王が高らかに宣言した、「毛人を制すること五十五国」の世界である。平安時代になっても、後の大和朝廷の人々は東北アイヌの棟梁であるアテルイを講和のふりをして殺しているし、さらに下って江戸時代には北海道アイヌのシャクシャインが松前藩にだまし討ちにされている。イワレヒコ=神武天皇の東征と、かなりの共通点がある。
ただし、この五十五という国数は、西の六十六、北の九十五と比べると少ない。これは、日本列島東部が当時それほど開けてはおらず、人口密度も低かったことを示していると考えられる。関東・毛野国あたりになると、狩猟を主な産業とする蝦夷=アイヌの国とそれほど差はなかったのではないだろうか。
さて、いったんは派兵して占領し現地司令官を置いた近畿地区だが、そのうちに現地勢力の巻き返しがある。統治する側にも後継者争いや内輪もめがあって、次第に本国=九州とは疎遠になっていく。そのあたりは鎌倉幕府が、最初は源氏将軍だったはずなのに、藤原将軍になり宮将軍になり、結局は執権の北条氏が実権を握ったようなイメージであろう。
九州から近畿への派兵と占領、現地司令官の派遣は、イワレヒコ=神武天皇の時と、ホムダ=応神天皇の時と、二度あったのではないかと思われる。おそらく、前者が3世紀、後者が4世紀頃のことと考えられる(これが、古事記の中巻と下巻の区分のもとになった)。その間、日本列島を代表して朝鮮半島にたびたび派兵し、中国と交渉していたのは九州倭国政権であった。
近畿=大和朝廷はこの時代まだ倭国の地方政権であり、後方支援の役割を担っていたと考えられるのである。
6.0.7 九州から大和へ
九州倭国は3世紀以降7世紀の白村江に至るまで、常に朝鮮半島への派兵を行ってきた。このことは広開土王碑文や、倭の五王から中国への依頼(新羅・百済等の将軍として任命するよう求めた)により裏付けられる。
この時代、巨大古墳のほとんどは大和・河内地区に集中しているが、このことを日本列島統一の証拠とする説が多い(歴史教科書もほぼこの論調で作られている)。だがおそらく実際には、九州倭国は国力のほとんどを朝鮮半島派兵に費やしてしまい、巨大古墳を作る余力がなかったというのが本当のところではないだろうか。
戦争と建設のどちらがよりGDPを必要とするかというと、それぞれの規模にもよるが、やはり戦争ではないかと思われる。この時代、古墳の建設はほとんどが土木工事であり、労働力とある程度の機材があれば可能なのに対し、戦争には輸送手段(船)、武器、食料および労働力が必要である。
そして戦争の場合、戦死という犠牲が生じる。これは単に戦力のマイナスというだけではなく、生産力のマイナスにもつながる。戦死者が増えれば、将来何年かのGDPは必ず減少する。言葉を変えると、再び新たな世代が生産年齢に達するまで、低成長を余儀なくされるということである。
だから、近畿に古墳が多いというのは、この地に中央集権的に権力が集中していたからというよりも、むしろ九州が朝鮮半島に進出を図っている間に、地方独自の財源(生産余力)によって建設されたとみるのが妥当である。日本列島の代表政権には、朝鮮半島の利権を奪還するという最優先課題があったはずなのに、古墳を作っているヒマがあったということは、逆にいうと中央とのつながりの薄い地方政権であったということである。
現代の感覚だと、九州と近畿は同じ政権が治めていて当然と考えがちであるが、源平の時代にも、南北朝・室町の時代にも、さらに戦国時代に至っても、近畿政権は九州を円満に治めていた訳ではない。ましてや古代に、近畿と九州が簡単に統一政権を作れたとは思われない。
これは、現代のわれわれが考えるよりはるかに、瀬戸内海の交通が安全・円滑なものではなかったことによるのではないだろうか。応神・仁徳時代の大遠征(私はこれが、倭王武による遠征ではないかと考えている)のような大規模なものを除けば、九州と近畿間のヒト・モノの交流というのはそれほど頻繁ではなく、九州軍団が引き上げた後、近畿の在来勢力が巻き返すことができたのではないかと考えるのである。
[Mar 13, 2010]