古代楽浪郡と倭国
紀元前の時代、定期的に楽浪郡を訪れたと漢書に書かれている倭人。朝鮮半島西岸には小さな島しかなく、百余国を擁する地域としては済州島より南であることが想定される。

8.1 漢書地理志(燕地条)

8.1.1 中国史書で初めて倭国記事が出てくる漢書

以前の連載では、魏志倭人伝と隋書東夷伝を中心に検討してきた。なぜかというと、魏志と隋書では倭国に中国の使節が来ていて、記載された内容をもとにして実際に何があったのか判断ができるからである。

逆に言うと、それ以外の史書の倭国記事は伝聞を記録したものがほとんどであり、検討していくとどうしても推測の部分が多くなってしまう。ただ、常識で判断するというこの連載の趣旨からすると、いわゆる通説とは違った見方もできるのではないかと思っている。

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中国正史において、はじめて倭と明示した記事が出てくるのは漢書においてである。漢書は中国正史として史記に続くもので、後漢の章帝(在位75-88年)時代にまとめられた。漢に先立つ王朝とされる夏、殷、周、秦については史記の中にまとめられていることから、単独の王朝としては初めての通史である。

漢書は内容ごとに本紀、表、志、列伝に分かれていて、志は分野ごとの記事である。律暦志、刑法志、食貨志などある中に地理志があり、中国各地や周辺諸国の位置、地名、世帯数、人口、風俗などが記載されている。その中で倭人について書かれているのは以下の記載である。

樂浪海中有倭人 分為百餘國 以歲時來獻見云
楽浪郡の海に倭人がいて、百余りの国に分かれている。定期的に来朝し献見したという。(拙訳)

わずか19字の記載であるが、ここにあげた倭人に直接関係する事項以外にも漢書地理志には多くの記事が書かれており、判断の材料となる。これから、この19字から浮かんでくる以下の問題点について検討することとしたい。この検討によって、倭人と中国との紀元前後の関わり合いについていくつかの示唆が得られるはずである。

1.楽浪海中とは、どこを指すのか。
2.百余国とは、どのような規模の集落と考えられるか。
3.定期的に来朝し献見したとはどういうことか。
4.ここで書かれている倭人は、後の倭国(倭奴国、邪馬台国、倭国等)を指すのか。



8.1.2 楽浪海中はどこの海を指すか

「楽浪海中有倭人」というが、楽浪海中とはどこを指すのだろうか。この文章を理解するためには、地理志の前段に書かれている楽浪郡の記事と、前漢の地方行政制度である郡国制について押さえておく必要がある。

玄菟、楽浪、武帝時置。玄菟郡、戸四万五千六、口二十二万一千八百四十五、県三。楽浪郡、戸六万二千八百一十二、口四十万六千七百四十八、県二十五。
玄菟(げんと)郡、楽浪郡は武帝の時代に置かれた。玄菟郡は住戸45,006、人口221,845、県3。楽浪郡は住戸62,812、人口406,748、県25である。(拙訳、以下同じ)

武帝の在位は、紀元前141年から87年。武帝は北方の匈奴に対抗するため、華北から朝鮮半島方面に大規模な遠征を行った。その際、衛氏朝鮮を滅ぼし中央の直轄地として設置したのが玄菟郡、楽浪郡である(消滅した真番郡、臨屯郡を加えて漢四郡と呼ばれる)。

前漢の地方行政は、中央直轄地である「郡」と、地方有力者に統治させた「国」とが併存する郡国制である。郡、国いずれも下部機関として県があり、現代日本の県→郡とは逆になっている。県の規模は人口数千~数万で、県の下部組織として郷、里などがあった。

楽浪郡の中心(郡治)は現在のピョンヤン付近にあり、墳墓や木製品、銅鏡、漢銭などが出土している。魏志倭人伝に登場する帯方郡は後に楽浪郡から分離されてできた拠点で、前漢の時代には帯方県として楽浪郡の一部であった。

武帝の遠征は匈奴をはじめとする北方の異民族に対処するものだったため、遠征軍は朝鮮半島南部にまで進出しておらず、楽浪郡など中央直轄地(漢四郡)の範囲も朝鮮半島の中央部までで、あとは周辺民族(=東夷)の住むところとされていた。したがって、楽浪海中とは、楽浪郡の先にある朝鮮半島西方ないし南方海上にある島々とみることができる。

朝鮮半島西方、つまり黄海に面している海岸線にも、多くの島がある。ただしそれらは陸地からそれほど遠く離れてはいないし、大きな島も少ない。「海中」にあり、ある程度以上の規模(分為百余国)となると、西方ではなく南方、つまり済州島、対馬、九州ということになる。

ただし「百余国」という数は尋常ではない。前漢の郡国制において「国」は諸侯が統治する地方行政組織で、人口数十万人、配下の県組織が数十にのぼるのである。同じ規模だとすると、数千万人の人口が朝鮮半島の先にいたことになる。上記のように、楽浪・玄菟郡の人口は合わせて100万人未満である。鎌倉以降ならともかく、紀元前に数千万人の人口というのは考えにくい。

そこで次の疑問、「百余国」とはどの程度の規模であるのか、という問題になる。



8.1.3 倭人のいう「クニ」は前漢の「国」とは異なる

前回に引続き、倭人百余国とはどの程度の規模の「国」であったか、という問題である。結論から言うと、前漢の郡国制における諸国とは異なり、集落に近い規模であったと考えられる。

漢書における百余国と非常に近い数字が、後の倭国関連史書に出現する。例の倭王武の上表文である。そこには、「東征毛人五十国 西服衆夷六十六国 渡平海北九十五国 (「宋書」倭国伝)」とある。(本連載 1.3.2 倭王武上表文からみた一国の規模)

まさに百余国に近い数字である。もちろん、前漢と南北朝(宋)では4~500年違うし、倭王武が漢書地理志を参考としたことはありうるが、逆はありえない。だから倭王武の上表文をもとに漢書を読むことはできないのだが、少なくとも、倭人が漢人に「われわれの島には百余りのクニがある」と言った可能性を想定することはできそうだ。

もう一つ考慮に入れなければならないのは、後に大和朝廷が「日本」となって律令制度を作る際に、日本列島がいくつの国に分かれたかということである。その際、国(令制国)として定義付けられたのは68国。漢書に書かれている百余国や、倭王武の征服した国数とは大きな開きがある。当然、この間に人口は増えているのだから、どこかでクニに関する定義が異なってきたことになる。

つまり、もともと倭人が理解していた「クニ」は集落程度の規模のものであって、漢人の理解する「国」とは違っていたのではないか。その後、数百年の間に倭人の文化水準も上がった。漢人とのやりとりにより知識も蓄積し、史記や漢書を読んだり聞いたりする機会もあっただろう。その過程の中で、「国」の定義が国際基準(漢人)に近づいたと理解することができる。

この連載の最初の方で(本連載 1.3.2 )、大集落の人口を約1000と推定した。おそらく、地理志でいうところの「分為百余国」、紀元前の時期に倭人が漢人に説明したひとつの「クニ」は、このくらいの規模であったと想定するのが適当である。

さて、漢人いうところの集落(「郷」とか「里」)をクニと言ってしまった倭人であるが、その後文化水準が上がったことにより、より漢人の理解に近い形でこの言葉を使うようになった。筑紫とか吉備、越、毛野、大和などである。律令以前のこうした国は10程度であり、それが分割されて令制国六十余となった。ただし、これは漢書の作られた時代より4~500年後のことになるのでここでは深入りしない。

一つだけ補足すると、9~10世紀に成立したとされる「先代旧事本紀」の第十巻に「国造本紀」があり、全国で135の国造家があったとされる。国造(こくそう、くにのみやつこ)は律令の国司に先立つ地方の支配者であり、その数が百余りということになると漢書の記述と一致する。

ただし、この「本紀」は成立過程に不明点があり偽書説もある。また、すべてが偽書ではなく古い伝承が含まれているとしても、百余りの中には律令以降の国司が混入している可能性もある。したがって、「本紀」を根拠に漢書地理志の百余国が実際にあったと考えるのは、やや無理があると思われる。



8.1.4 倭人は楽浪郡まで定期的に交易にやって来た

次の問題は、「以歳時来献見云」(歳時を以って来たり献見すと云う)である。楽浪郡の海上、つまり朝鮮半島の南方から来たという倭人が、定期的に来朝し献見したとはどういうことなのだろうか。

まず押さえておかなければならないのは、中華王朝は国として商売を行うことはなく、貿易は朝貢-下賜の形でしか行えないということである。貿易は非常に大きな利益を生むものなので、市場を開いて手数料をとれば財政的にはかなり潤うのだが、「商業は卑しいもの」というのが彼らの価値観なのである。

したがって、周辺諸国としては「余った収穫物を持って行って必要なものと換えてもらう」行為なのであるが、中華王朝にとっては、市場を通じた売買ではなく朝貢という形をとるということになる。もちろん、日常生活に必要なものには市場(商店)があったが、価値のあるものは貢物の返礼としての下賜による他はなかった。

(国家=王朝が貿易をしないというだけで、民間における商業は盛んであった。史記をみると、すでに春秋戦国時代には商売で財産を築いた話が出ている。)

この時代に周辺諸国に下賜された品目には、銅鏡や刀剣などの金属製品、綿や絹などの繊維製品、銅銭などが知られている。もらう側からすれば、地方の収穫物・特産物を先進工業製品や中央の貨幣と換えてもらうつもりだっただろうが、中華王朝からは「衆夷(周辺の未開人)が貢物を持ってやってきた」という意識である。そして朝貢の何倍もの返礼(下賜)を行うのが、中華王朝の甲斐性とされたのである。

倭国に対しても同様の物が下賜されたと思われるのは、弥生時代の遺跡や古墳の遺物の中に、中国・朝鮮半島から渡ってきたそれらの品物が含まれているからである。 では、倭国からは何を持って行ったのだろうか。

まず考えられるのは、貝や海草等の海産物である。この時代には細かくて強い漁網や大きな漁船はないので沖合漁業はできないが、沿岸での釣り、銛等による漁獲や海藻類、貝類の採取は行われていた(貝塚等に残っている)。海苔、ワカメ、昆布などは万葉集にも名前が残っており、古代国家において租税として納められたものだから、中華への貢物として有力である。

次にあげられるのは、魚類である。岩手県にある縄文時代の遺跡、崎山貝塚からは、イワシ、カタクチイワシ、カサゴ、タイ、アジ、カツオなどの骨が発見されている。今日でも、干物や発酵食品として食べられている魚が含まれている。紀元前後においても、これらの魚・魚加工物が珍重されたと考えることができる。先方でも「楽浪海中」といっているくらいだから、海産物を持って行ったとみるのが自然でもある。

貢物のもう一つの候補は、薬草である。紀元前後に編集された百科全書である「論衡」に、「周の時代に、倭人が暢草(薬草)を献上した」という記事がある。周は、秦よりさらに前、紀元前10世紀から4世紀くらいまで存続した王朝で、倭人はその時代から朝貢していたことになる。

ただし、「暢草」(ちょうそう)が何だったかは分かっていない。私の推測では、ヨモギではなかったかと思う。古来より万能薬として使われていた植物であることに加え、「あまり効果がなかった」という記事もあるからである。倭国内では薬草として大いに使われたものの、先進国の本格的な薬草と比べると効果が薄かったということはありそうである。当時すでに、現在の漢方薬に近い処方はあったからである。

現在残っている最古の医学・薬学に関する書物は、前漢時代の「黄帝内経」、後漢時代の「神農本草経」であるとされるが、秦の始皇帝が焚書坑儒を行った際に「医薬」に関する書物は焚書の例外とされていることからみて、春秋戦国時代(周の末期)にはすでに漢方薬や針灸に関する書物はあったはずである。

当時、不老長寿の妙薬を求めるニーズはきわめて大きかったことから、さまざまの生薬やそれらのブレンド(処方)が試されただろう。その中には、今日でも使われている葛根湯や小柴胡湯に近い処方もあったと思われる。

これらの貢物を持ち、「歳時を以て」、つまり年に1度以上は、朝貢に訪れた。訪れた先は、おそらく首都である長安ではなく、楽浪郡(ピョンヤン)である。当時の造船技術や長距離を荷物を持って移動する能力を勘案すると、内陸部である長安まで行くことはできなかったと思われる。だから正史には、「云う」(ということである)と書かれているのである。



8.1.5 漢書地理志の倭人は後の時代の倭国というのが中華王朝の認識

最後の問題は、漢書で述べられている「倭人」が、後の時代の倭奴国、邪馬台国等の国々を指すのかどうかという点である。

この点については、中国側からの視点は明確である。単に「倭」という言葉だけが共通しているだけではなく、後の時代の正史において、前の時代の正史の記載を引き継いで記事が書かれているのである。代表的な事例として、後漢書、魏志および旧唐書の記載をあげると次のとおりである。

倭奴国奉貢朝賀 使人自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬。[後漢書]
倭奴国が貢物を持ってお祝いに来た。使者は自ら大夫と称した。倭国のもっとも南だという。光武帝は印綬を与えてねぎらった。

倭人在帯方東南大海之中 (中略) 旧百余国 (中略)今使訳所通三十国。[魏志]
倭人は帯方郡の南東の海の中にある。もと百余国あったが、現在往来しているのは三十国である。

倭国者古倭奴国也。[旧唐書]
倭国はもとの倭奴国である。

漢書で「楽浪」と言っていたのが魏志では「帯方」となったのは、出先機関として楽浪郡から分かれて帯方郡が新設されたためで、書かれている内容はいずれも同じである。後漢書には漢書の記載を受けた部分は見えないが、そもそも漢書が書かれた時期は後漢時代であり、記録者としては、あえて書かなくても明白であるという認識であったろう。

なお、倭奴国が光武帝に朝貢に来たのは紀元57年(建武中元2年)。「賀」であるから何かをお祝いに来たのだが、これは新年とか定例的なものではなく、光武帝の後漢が中国を再び統一したことに対する祝賀であると考えられる。

後漢が成立したのは紀元25年、光武帝・劉秀は前漢の皇族のひとりで、新の王莽が前漢を滅ぼしてから混乱していた中国を再び統一した。とはいっても、混乱していた時期に各地の豪族が実効支配していた地域も多く、中国全土に勢力を確立するまでにはなお時間を要した。

25年に建国して57年に祝賀では時間がかかりすぎているように思われるが、56年に建武中元と改元したのは、この年に天下泰平を天地に感謝する「封禅」の儀式を行ったためであり、祝賀使のタイミングとして悪くはない。むしろ辺境の地としてはすばやく対応したと考えられるし、だからこそ光武帝も喜んで金印を下賜したのだろう(志賀島で出土した漢倭奴国印である)。なお、光武帝はこの年のうちに亡くなっている。

それ以前には倭国の使者が直接首都に朝貢に来たという記録はなく、おそらくこの時初めて倭国の使者が中華皇帝のもとを訪れたと思われる。前の時代にできずにこの時代にできた理由の一つとして、首都が従来の長安から洛陽に移ったことがあげられるだろう。

洛陽も長安も黄河に沿った都市であるが、洛陽の方が数百km下流にある。経済力の向上に加え、より近い位置への移動ですむことから、出先機関(楽浪郡)ではなく、皇帝のもとへ直接朝貢することが可能となったのである。

また、これ以降の時代はそれぞれの時代の王朝との直接交渉が生じるが、周辺諸国の使者がアポなしに行って皇帝とか中央の高官に直接会えるはずがない。当然、事前の交渉が必要であり、そこには文書でのやり取りがあったはずである。(現代でも、「電話じゃだめだ。依頼文をよこせ」というくらいである)

したがって、これ以降の時代において、邪馬台国もタイ(ニンベンに采)国も、事前の交渉においてかつての倭奴国であると名乗ったし、文書にそう書いてあったということである。それらの国々が直接の後継国家かどうかは分からないが、少なくとも中華王朝側はそう受け取っているからそのように記録に残ったということである。

一つだけ注意喚起すると、倭奴国が倭国の最南であると後漢書には書かれている。金印が出土した九州北部を倭奴国とすると、倭国はそれより北に展開しているということになる。以前、魏志倭人伝の検討の際に指摘したように、もともと倭とは朝鮮半島南岸から日本列島を指したものと考えられるのである。



8.1.6 倭は周王朝の親戚筋と思われていた

さて、これまで漢書地理志に書かれている内容を検討してきたが、最初に述べたようにもともとが17字しかないので、掘り下げようにも掘り下げられないところがあるのはやむを得ない。いろいろ推測することは可能であるが、根拠がなければただの想像になってしまう。

ただ、ここであげておきたいのは、前漢・後漢より前の時代から倭国と中華王朝に関わりがあるとされる伝承がいくつか残されていることである。

その一つは「野馬台詩」、奈良時代から平安時代初期に成立したとみられている予言詩である。この詩の一部に「天皇家は百代まで」と解釈できる部分があることから、足利義満が天皇家乗っ取りを画策した(井沢元彦「逆説の日本史」他)といういわくつきのものである。その冒頭部分で「東海姫氏国」と書かれており、これがわが国を指すとされてきたのである。

なぜ「姫氏国」が日本なのかというと、天照大御神も神功皇后も女性だからだというが、これはどう考えてもおかしい。そんなことを言ったらイザナギノミコトは始祖ではないのか、神武天皇は初代ではないのかということになる。また、この詩はもともと中国が出所であり、唐の玄宗皇帝が吉備真備に解読を命じたという伝説がある。とすれば、中国側の視点から姫氏国が日本である説明がつけられなくてはならない。

(この説話をもとにした、吉備大臣入唐絵巻という美術作品がある。平安時代末の後白河時代に作られた。明治維新の混乱期に海外に流出し、現在はボストン美術館所蔵である。さきに日本に里帰りして上野で公開された。)

さて、中華王朝が「姫氏国」を日本(倭国)であるとみなしていたと仮定する。中華にとって姫氏とは何を指すかというと、これは明白なのである。漢が「劉」氏であり唐が「李」氏であるのと同様に、「姫」氏とは周王朝の皇帝を指すのである。東海、つまり中国の東の海中に位置する、周と親戚の国という意味になる。

周の勢力範囲は黄河中流域であり、日本列島とはかなり離れている。したがって倭国と中華王朝の直接の往来は、紀元1世紀の後漢・光武帝の時代までなかった。周から日本列島に至るまでには、春秋戦国時代ならば燕、衛、魯、斉といった国々があり、さらに朝鮮半島があった。

紀元前に成立したとされる中国の地理書「山海経」には、「倭は燕に属す」という記載がある。燕は周と縁戚関係にあったので、春秋戦国時代以降、倭に縁付いた周皇帝の血縁者がいたのかもしれない。

少なくとも、東海上の倭は周王朝と親戚であるという伝承があったから「東海姫氏国」という表現が残されたと考えるのが自然であり、中国人が日本書紀を読んでアマテラスだから女の国だとして「姫氏国」と名付けたという解釈は受け入れにくいのである。こうした伝承があったということは、漢以前の時代から倭と中華王朝には何らかのつながりがあったと考えられるのである。

もう一つは、「徐福伝説」である。徐福は秦の時代の人物で、不老長寿に強い関心を持った始皇帝に取り入り、妙薬を求めるためと称して東方海上に去りそのまま戻らなかったと史記に書かれている。この徐福についての伝説が、日本各地に残されているのである。

その際、徐福は3000人の童男童女、多くの技術者、穀物の種などを携えて船出したと書かれている。史記においては東海上=倭国に船出したとは明示されていないが、地理的に考えれば東海上が日本列島を指していたと考えるのは自然である。また後の時代には、徐福によって日本列島にすぐれた技術が伝わったため、日本産の製品は精巧で出来がいいという伝承すらある。

つまり、漢に先立つ秦の時代に、大規模な倭国への人口移動があったということになる。ただし、可能性としては日本各地に残る伝承の方が、中国史書(史記)をもとに後付けで作られたかもしれない。だからここで深入りすることはしないが、紀元前から倭と中華王朝の関わりがあった可能性があることは指摘しておきたい。

[Apr 4,2014]

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