国宝・漢委奴国王金印
漢代に倭国王が贈られた金印の印影。福岡県(志賀島)で発見された。これにより、少なくとも1~2世紀において日本列島を代表する政権が北九州にあったことがわかる。

1.1 古代史を常識で考える

私は学者でもなければ研究者でもないので、古文書の分析とか遺跡の実査とか、古代史に関する史料全般の精査が可能なわけではない。しかしながら、教科書で教える古代史が常識から考えて「?」なのではないかということは以前から思っていた。

古代日本について、学校で習った大まかな流れは以下のとおりである。
① 古代日本では、先進文化国である中国(漢)、朝鮮半島諸国の影響を受けて、いくつかの小国がまず成立した。
② その中から、周囲の諸国と連合あるいは征服することによって勢力を増し、直接中国の王朝に接触する国が現れた。その代表が3世紀の卑弥呼による邪馬台国である。
③ 4~5世紀になって、近畿地方に統一政権である大和朝廷が成立した。仁徳天皇陵など巨大な古墳群に示されるように、その勢力は西日本全域と東日本の一部に及んだ。
④ 朝鮮半島への派兵(白村江の戦い)や統一政権内部の勢力争い(崇仏戦争から壬申の乱まで)を経て、大和朝廷は奈良平城京において確固たる基盤を固めた。

ここでまずいくつかの疑問が浮かび上がる。「道路網も通信網もなく、経済力も十分でない時代に、日本列島を統一政権が支配することが可能だったのか」「大和朝廷が武力で全国制覇したのならば、後の時代に、近畿の軍隊は弱いという風評が定着しているのはなぜか」、そして最大の疑問は、「対外戦争(白村江の戦い)で壊滅的な敗北を喫した政権が、ほとんど無傷で存続しているのはなぜか」ということである。

他にも、邪馬台国の位置は楽浪郡からの距離が記載のとおりならば九州北部以外にありえないのに、なぜ近畿説なるものが浮上するのか。隋書には、倭王「アマ・タリシヒコ」から無礼な国書が来たとはっきり書かれているのに、なぜ聖徳太子が小野妹子を派遣したと断定しているのか。など、常識的に考えて理解できないことはいろいろある。

これらの理解できない点を自分なりに筋道を通そうとするならば、行きつくところ、「日本書紀は信用できない。なぜなら新興国である日本を唐をはじめとする先進国に認めさせる目的で編集されているから」「古代日本の姿を考察する場合、日本書紀は話半分とみてとらえ、むしろ利害関係のない中国史書を基礎資料とすべき」という考え方を取らざるを得ないのである。

以下では、こうした日本古代史上の疑問点について、私なりの考察を加えた上で、古代日本の実像に関する仮説を構築してみたい。

まず初めに考えてみたいのは、「統一政権の成立」というテーマである。現代人は統一政権というものを中世以降の武士政権を基準に考えてしまうが、鉄道もなければ道路もない、舟だって馬だってそんなにいない古代日本で統一政権がどうやって成立しえたのだろうか。そして、経済力が十分でない地域を統一することに、何かメリットがあったのだろうか。

むしろ各部族、各集団が教科書で習うより後の時代まで、日本各地に自分の領土を勝手に作って実効支配をしていた、と考える方が常識的なのではないだろうか。このことを検討するため、話はいきなり13世紀に飛ぶけれども世界史上空前絶後の領土を獲得したモンゴルの事例について考察してみたい。このことから、統一政権は何をもって成立し、維持することが可能となるかのヒントが得られるはずである。

[revised Jun 10,2014. original Jun 21, 2007]

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