吉野ヶ里遺跡出土の貝殻
魏志倭人伝には、邪馬台国は漁師の国で、住民は刺青をして海に潜ると記録されている。近畿大和の風俗ではなく、九州沿岸部と考えるべきである。

2.1 魏志倭人伝の位置づけ

2.1.1 魏志とは何か

さて、これから魏志倭人伝の検討に入るが、まず最初に押さえておくべきなのは、魏志とは何かということである。ごくごくかいつまんでいうと、「魏志とは、史記から連続する中国の歴史書・三国志の一部であって、漢民族による漢民族のための文書」である。従って、ここに古代日本のことが書かれているからといって、彼らが古代日本の側から検証している訳ではない。

つまり、日本の側の「古事記」「日本書紀」のもとになったとされる帝紀・旧辞、文書以外の伝承などが仮にあったとしても、魏志倭人伝を書く側ではそんなものは一切考慮に入れていない。いうまでもなく、漢民族にとって自分達だけが先進国(中華)でその他はすべて野蛮人というのが当時の認識だからである。

だとすれば、魏志倭人伝を読む上において気をつけなければならないことは、後の時代の日本側の文書や、村落遺跡や青銅器の分布、古墳がどこにあるかということから倭人伝を解釈するのは間違いで、まず倭人伝を解釈してみて、それと考古学的な証拠とが矛盾しないかというアプローチが正しいということである。

そうなると、結論は明白である。魏志倭人伝を常識的に解釈する限り、邪馬台国の所在を九州北部以外とすることには無理がある、ということである。九州北部といっても、現在の福岡県には限定されず、五島列島周辺から熊本、宮崎を東西に結ぶ線の北側とみていいと思うが、その範囲を超えて邪馬台国を想定するとする議論は、結局のところ魏志倭人伝以外のところから出発しているといわざるを得ない。

そうした議論の最大のものは、「現実に、少なくとも7世紀初めに日本列島を統一していたのは、近畿に拠点を置く大和朝廷ではないか」ということなのだが、そこから出発しようとすると、どこかで、魏志倭人伝に代表される中国側の日本列島認識は根本的に間違っているという結論にならざるを得ない。当時、世界最高の先進国である中国が、それほどおバカさんであったとは私にはとても思えない。

事実、日本列島において縄文時代と大して変わらない竪穴式住居に暮らしていた頃、中国では現代にも通用している思想書(論語や老子・荘子、史記)はすでに完成していて知識階層はみんなそれを読んでいたし、日本で16世紀の戦国時代あたりまでやっていた戦争のやり方(例えば大河ドラマの山本勘助や黒田官兵衛がやっていたこと)は、この時代の中国はそれこそ「とっくの昔に」やっていた(諸葛孔明はもちろん三国時代)のである。



2.1.2 中国正史の信頼性

中国の歴史書の特徴は、「その政権が滅亡した後に、その歴史的意義を総括するものとしてまとめられる」ということである。だから、「漢書」は前漢の滅んだ後、「後漢書」は後漢が滅んだ後にまとめられる。

その政権が存続している時にはまだまとめられないし、その政権がいつまで続くかは分からないので(もちろん当事者にとっては永遠に続いてほしい)、唐の時代になると「起居注」といって、その時代に起こったことを記録しておく制度ができたが、三国時代にまだそういう制度はない。

だから、そういう文書をまとめようとする筆者は、現代のジャーナリストがそうするように、残されている記録を収集し、その中から真実に近いものを取捨選択して再構成する。それを他の資料と突合してどちらが正しいか検討したり、関係者にインタビューしてより真実に近づいていくという方法をとったものと考えられる。

三国志の「三国」とは、後漢末の群雄割拠の中から成立してきた魏、呉、蜀の3つの国、ないしその時代のことを指す。本来、漢民族の国家は最終的に統一されてくるのだが、蜀の参謀である諸葛孔明が、蜀の実力で国家統一は困難であることから「天下三分の計」を立案し、それによりそれぞれの国が牽制し合う形で一時的に均衡したのである。

後漢が滅亡したのが西暦225年、蜀、魏に続き呉が滅亡して三国時代が完全に終わったのは280年、魏志倭人伝が西晋(この国は魏を滅ぼして建国された)の陳寿によりまとめられたのは280~90年のこととされる。だから、ほとんど同時代に書かれたといってよく、例えば紀元前97年頃完成した史記が、数百年前(例えば呉越同舟とか臥薪嘗胆は紀元前5世紀の話)のことを書いているのに比べると、伝承や記録の散逸によるミスは少ないと考えられる。

にもかかわらず、わが国における邪馬台国論争では、魏志倭人伝が根本的に間違っているという前提の議論がかなり多いのである。



2.1.3 魏志倭人伝における最も大切な記載

魏と邪馬台国の女王卑弥呼との交渉があったのは西暦240年から250年のことである。三国志がまとめられるせいぜい30~40年前であり、まだ関係者で生きている人もいただろうし、辺境の記事などあまり読まれないとしても、知識人の多くが目を通す以上いい加減な記載をするはずがない。そんなことをしたら「物を知らない奴」「あの程度で正史を名乗るのか」と言われてしまうだろう。

もちろん、「根本的な間違いは考えにくい」だけであって、間違いが全くないという訳ではない。また、当時はまだ印刷がないので、文書を複製する際には原本からまず写し、それをまた写し、という形で残されることになる。だから、どこかで写し間違いが起こるとそれ以降の写本はすべて間違ってしまうということになる。

写しているのが人間だからそういう間違いは避けられないかもしれないが、逆に言うと人間だから考えながら写している訳で、あからさまにつじつまが合わなかったらひとに聞いて確認するとか、もともとの原本に当たるとかするはずだ。いまの人間が考えるほど、当時の知識人のレベルが低いとは思わないので、いずれにせよ原本と写本とはそれほど違わないと考えている。

さて、前置きが長くなってしまったが、魏志倭人伝における最も大切な記載は何なのか。当時の知識人でも、三国志は全65巻もあるから一字一句検討して読んでいる暇はない。だから、邪馬「臺」”国なのか邪馬「壱」国なのか、奴国が2回出てくるがこれは同じ国か違う国か、などということはいちいち気にとめないだろうと思う。

魏志倭人伝の最大のポイントは、次の一文である。

郡至女王国万二千里(郡より女王国まで一万二千里である)

この文は、文章の合間にさりげなく入れられているものではない。倭人伝はいくつかの部分に分かれるが、その中で第一部といえる「邪馬台国の位置」の最後の文であり、このすぐ後から第二部「邪馬台国の風俗」が始まるという、まさに文章の肝(きも)、斜め読みしてもここには必ず目を止めるという部分にある。

この文章を間違いとしなければ、邪馬台国畿内説は成り立たないのであるが、こんなところで間違えるほど当時の知識人のレベルは低くないと思う。したがって、倭人伝の解釈はここからスタートすべきなのだ。

[Nov 17, 2007]

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