国宝・稲荷山鉄剣(埼玉県!)
太平記に書かれている「近畿の兵は戦闘では関東に敵わない」という認識は、記紀にまでさかのぼれる。ならば大和朝廷がどうやって全国統一を果たしたのだろうか。
9.0 弱い大和朝廷がどのように日本を統一したか
9.0.1 大和朝廷とフランスの共通点
以前から続けている「常識で考える日本古代史」シリーズ、その冒頭で、いくつか日本古代史の問題点をあげた中に、以下の疑問を投げかけている。
「大和朝廷が武力で全国制覇したのならば、後の時代に、近畿の軍隊は弱いという風評が定着しているのはなぜか。」
この点について、先日ある本を読んでいて急に思いついたことがあり、この夏の短期集中連載としてまとめておきたい。ある本とは、モーリス・ルブラン「813」、言うまでもなくアルセーヌ・ルパンのシリーズである。
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今の少年少女は、ルパン3世は知っていても原典のアルセーヌ・ルパンはあまり読まないようで、図書館に行くとたいていシリーズ全巻が並んでいる。これはシャーロック・ホームズも同様で、小中学生の読書離れはますます顕著であるということであるが、ガリバー旅行記が必ずしも子供向けの本とはいえないように、ルパンシリーズも結構きわどいことが書かれている。
「813」では、英仏独間の機密外交文書をめぐって、ドイツ皇帝が直々にルパンのもとを訪れるという場面がある。ルパンは皇帝に対し、アルザス・ロレーヌはすぐに返せないだろうけれどもモロッコからは手を引けという主張をするのだが、このストーリーを読んでいて、日本の古代にすごくよく似ていると思ったのである。
フランスは、もとはといえば西ローマ帝国に侵入したゲルマン民族の建てたフランク王国がその発祥であり、古い歴史を持っている。9世紀にはカール大帝(コルトン・シャルルマーニュ!)が教皇から西ローマ帝国の後継者であることを認められた。以来、ヨーロッパにおける政治的・文化的強国として、常に国際政治の一方の雄としての位置を占めてきた。
ところが、「813」を読むと、フランスは軍事的にこれまでドイツに敵わなかったし、これからも敵わないだろう。しかし計略によって(腕で勝てなくても頭で)、十分以上に伍していくことができるはずだというルパンの考えが述べられていて、ストーリー上では盗み出した機密文書で皇帝を手玉に取るのである。ここにフランス人のメンタリティが表現されている。
私がこれを読んで非常によく似ていると思ったのが、太平記の次の一節である。
若勢を合て戦はゞ、六十余州の兵を集て武蔵相摸の両国に対すとも、勝事を得がたし。若謀を以て争はゞ、(中略)、是欺くに安して、怖るゝに足ぬ所也。
もし正面きって合戦を行うならば、たとえ六十余州の兵力を集めたとしても、武蔵、相模の両国に勝つ事はできないでしょう。けれども、もし何らかの策略を用いて戦うならば、彼らを欺くことは簡単で、恐れる事はありません。(太平記巻第三)
楠木正成が後醍醐天皇に主張した、有名な一節である。楠木正成は阪奈県境の金剛山に拠点を置く武将で、その地元武将が「関東の兵と正面切って戦っても勝てないので、だまし討ちする」とはっきり言っているのである。大和朝廷の全国統一(壬申の乱)から、600年後のことである。現代からすると、戦国時代くらいの話である。
いまだに、山梨県は武田信玄の地盤であったことを甲府駅前の銅像が物語っているし、尾張三河あたりは信長、秀吉、家康を輩出したことを誇りとしている。もし大和朝廷が武力で全国統一したのであれば、600年前のこととはいえ、それほど卑下することにはならないのではないだろうか。
9.0.2 太平記以前から、畿内兵の評価は低い
楠木正成(または太平記の作者)がこのセリフをときの天皇に述べたということは、関東(武蔵・相模)の兵は強兵であり、畿内の兵が正面から戦っても太刀打ちできないという共通認識があったことになる。それでは、太平記の時代(鎌倉末から南北朝)以前に同様の認識は確認できないだろうか。
まずは太平記に先立つ国民文学というべき、平家物語にそのひとつが求められそうだ。太平記に先立つこと200年弱、平安時代末である。平家物語における東西激突の中で、最も印象深い戦いの一つが富士川の戦いである。源頼朝挙兵の報を聞いた政府軍(平氏)は、各地で兵を補充しながら駿河の国、現在の静岡県に達する。大将は平維盛、清盛の孫である。
この時の源氏方は武田信義以下、甲斐源氏の兵が中心であった。夜間、富士川に陣を敷く政府軍の背後を突こうと信義らが兵を進めると、川にいた多くの水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音に驚いた政府軍は、応戦するどころか大混乱に陥ってしまい、逃げる者同士で味方の馬に蹴散らされたり散々な状況となった。源氏方はほとんど被害なしに平家軍を破ったのである。
同様の記述は源平盛衰記、吾妻鏡にもあり、多少の脚色はあるかもしれないがそうした事実はあったものとみられる。平家方が無理やり徴兵された寄せ集めの軍勢だったことを差し引いても、静岡以西の兵は弱く、司令官にも指揮命令能力がないと思われても仕方のないところである。
さらに、平家物語に先立つ軍記として、保元物語、平治物語がある。前者は保元の乱、後者は平治の乱の顛末が述べられており、両戦乱を勝ち抜いた平清盛が政権を奪取する。戦争の勝敗としては結局平家方の勝利であるのだが、実際の戦闘において最強とされたのは平清盛ではない。保元物語では鎮西八郎為朝、平治物語においては悪源太義平が最強の侍と評価されている。
鎮西八郎も悪源太も、本姓は源である。保元の乱で勝ち平治の乱で敗れた清和源氏の直系、源義朝(よしとも)にとって、鎮西八郎は弟、悪源太は長男にあたる。ともに、怪力無双の強兵で、一人で数十人を倒してしまうという伝説を持つ。そして、鎮西八郎はその名の通り九州から、悪源太は関東から出てきた武士なのである。
以前から述べているように、日本古代は筑紫(九州)、大和(畿内)、毛野(関東)の三大拠点から成り立っていた。奈良時代、仏教が国教化されて僧侶は国の許可制となったが、その許可を与える役所(戒壇)が、大和の東大寺、筑紫の観世音寺と下野薬師寺にあったのもそれを反映していると考えられる。そのうち、九州・関東には著名な強兵が出て、大和からは出ていないのである。
太平記の14世紀、保元・平治・平家物語の12世紀には「関東・九州は強く畿内の兵は弱い」という認識があったことはほぼ間違いない。では、それ以前はどうだったのだろうか。
9.0.3 記紀までさかのぼっても、畿内兵が他地区を席巻した伝承はみられない
平安時代は公家の時代ともいわれ、藤原氏を中心とする貴族が荘園制を武器に実質的に律令体制をなしくずしにした時代である。
律令はもともと中国から輸入した制度であり、制度の中にはもともと軍備も含まれていた。ところが平安時代初めに中央政権としての軍備を放棄してしまい、実際の治安維持は検非違使など律令制度に規定されていない役所を作って対応した(令外官)。制度としては兵部省や衛府があったのだが、為政者(貴族たち)が実際に軍備に就くことはなかった。
ということは、平安時代に畿内の兵が軍勢を率いて他地区に遠征することはほとんどなかったのである。数少ない例外として、平将門および藤原純友の乱の鎮圧と、坂上田村麻呂による蝦夷征伐があげられるが、前者も後者も司令官こそ中央だが実際に戦ったのは地方で徴兵された兵だし、蝦夷征伐に至ってはほとんどだまし討ちである。
さかのぼって奈良時代。大きな戦乱としては長屋王事件、橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂の乱などがあるが、いずれも畿内基盤の豪族同士の争いであり規模は小さい。最大級の仲麻呂の乱でも琵琶湖周辺が主戦場であり、動員された兵力もおそらく合計数千を上回ることはない。戦い自体も短期間で片付いており、目立った武将の活躍もない。
畿内を超えた規模の戦争ということになると、7世紀末の壬申の乱までさかのぼらなければならない。この戦いで大海人王子は、吉野から鈴鹿を越えて伊勢湾方面に逃れ、東国の兵と合流して関ヶ原から京都方面に進出、大友皇子(弘文天皇)軍を打ち破った。この際、九州方面軍と連携していたことは、日本書紀に書かれている。ここでも、畿内の兵は敗れているのだ。
さらに言えば、大化の改新は飛鳥周辺の局地戦でありそもそもが蘇我入鹿暗殺。蘇我・物部崇仏戦争もせいぜい大阪湾岸までの戦域にとどまり、仁徳天皇の一族による騒乱も大阪湾から奈良盆地までの範囲内で行われた。ヤマトタケルは敵地に乗り込んでのだまし討ち(暗殺)だし、神武天皇は逆に、九州から近畿へ進出して大和朝廷を作ったと書かれているのである。
つまり、歴史をどこまでさかのぼっても、畿内の兵が関東・九州を蹴散らしたなどという戦いは確認できないということである。記紀は伝説・伝承としか評価できないとしても、それでも畿内勢力が勝ったのは例外なく畿内相手で、戦乱の規模も小さいのである。これはどういうことだろうか。
大和朝廷が最終的に古代日本を統一したことは間違いない事実である。一方で、畿内の軍勢が九州・関東に進出して蹴散らしたという伝承はない。だとすると、他地区に基盤を置く勢力が近畿に進出したか、あるいは戦争以外の手段によって大和朝廷が全国統一を果たしたかである。前者は「邪馬台国東遷」説であるが、輸送手段も通信手段もない中で、政権だけが長距離を移動するのは現実的でない。(第一部・実効支配ご参照)
ありそうなのは後者、 畿内勢力すなわち大和朝廷が、戦争で征服する以外の手段で列島統一を果たしたという可能性である。それでは次に、太平記の時代から今日まで時代を順送りしてみよう。
9.0.4 またも負けたか八連隊、の意味するもの
太平記の時代から100年余り後、群雄割拠の戦国時代が始まる。戦国時代を終わらせたのは信長・秀吉・家康の尾張・三河軍団である。そして、最後の勝者である徳川家康が実力を蓄えたのは武田家滅亡後にその軍団を吸収したことと、江戸転封により関東の兵を支配下においたことが大きい。この時代にも、戦闘力があるのは関東・甲信越の武士なのである。
その時代に畿内がどうだったのかというと、ろくな戦国大名が出ていない。室町幕府の本拠であったことと、宗教勢力が強かったこと等を差し引いても、せいぜい三好三人衆とか、松永久秀、筒井順慶くらいしか名前の通った戦国大名はいない。そしていずれも、武勇に聞こえたというよりも、権謀術数、陰謀や策略に長じたタイプがほとんどである。
(応仁の乱で壮絶な内輪もめを起こしたのも、古事記下巻の仁徳天皇一族の争いとよく似ている。)
三好三人衆と松永弾正久秀は、室町将軍足利義輝を 騙し討ちに近い形で殺しているし、戦闘力上位の織田信長と権謀術数で対抗したのはよく知られるところである。
久秀の東大寺大仏殿焼き討ちは、信長の比叡山全山焼き討ちと比べるとスケールは小さいが、敵の意表を突く、神仏を恐れないという意味では信長に先立つ事例であり、注目に値する。けれども、強いか弱いかということになると、弱かったということになるだろう。その証拠の一つが、国一揆や一向一揆に負けたのも近畿周辺の地域という点である。
一方で、武勇に聞こえた戦国大名はどこかというと、武田、上杉、島津という名前が浮かぶ。こうして並べると関東甲信越と九州である。太平記の時代から300年下っても、畿内は弱く関東・九州は強いという認識は変わらないのである。天下分け目の関ヶ原も東軍の圧勝。もちろん謀略の勝利という側面は大きいものの、戦闘で弱ければ戦争は勝てない。
さらに時代が下って明治維新以降、 全国の軍隊を評した俗説に、「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊(くれんたい)」というものがある。八連隊は大阪本拠の歩兵第八連隊、九連隊は京都本拠の歩兵第九連隊のことで、大阪・京都の兵隊はカネ勘定と口が達者なばかりで戦争したら弱いという風説から作られたものである。
ただ実際には、八連隊は大阪に本拠があるだけで各地で徴兵された兵で編成された部隊であり、負け続けたという事実もないらしい。それでも、「また負けた」と言われてしまうくらい弱いイメージが確立しているのである。これは日本の歴史上、畿内から強い軍隊が生まれたことはないという事実からの類推と推測することができそうだ。
こうして歴史を振り返ると、太平記における楠木正成の認識は、それ以前の数百年もそうであったし、それ以降の数百年も変わっていないということが言えそうである。 そうなると、そもそも日本列島統一の過程において、大和朝廷が武力で全国を制圧したということはありそうにないことのように思われる。
だとすれば、畿内の軍隊が弱いという時代を超えた認識と、実際に大和朝廷が日本列島の統一政権であったという事実は、どう折り合いがつけられるだろうか。この答えも、楠木正成のセリフの中に含まれている。すなわち「策略を用いて戦うならば、彼らを欺くことは簡単で、恐れる事はありません」ということである。
9.0.5 大宰府のもともとの名前は「倭京」
これまで述べてきたように、「畿内の兵は弱い、けれども知略に秀でているので最終的に勝つのはこちらだ」という認識は、太平記の楠木正成が言ったことになっているが、その起源は大和朝廷が全国を支配した時点以前までさかのぼるというのが私の仮説である。大和朝廷が全国を支配したと確実に言えるのは701年の大宝律令、710年の平城京遷都以降であり、それ以前に日本の首都があったのは九州と考えている。飛鳥(明日香浄御原宮)には全国から物資が集まるだけの規模はないし、律令にない「評」(ほぼ「郡」に相当)という地方行政組織や記紀にない年号(九州年号)が今日に伝わっていることに説明がつかない。
そして、大宰府が平城京に匹敵する規模の大都市であったことは、これまでの発掘調査結果が裏付けている。山の中にある飛鳥と比べれば、博多湾に近い大宰府が人の流れ・物の流れに適した土地であることは明らかだし、当時の先進地域である中国・朝鮮半島にも近い。大都市が作られる条件が整っていると考えられる。
大宰府に政権があったと記紀には書いていない。わずかに継体天皇紀(6世紀末)に「九州で筑紫君磐井が専横を極めたので討った」という記事があり、九州に大都市があったことがうかがわれるくらいである。そして、大「宰」府と言う言葉自体が、上位に対する下位、中央に対する地方を意味するものであるから、大宰府という名前は近畿に首都が移ってからのものであろう。
では大宰府は当時何と呼ばれていたのだろう。私が思うに、「倭京」と呼ばれたのではないだろうか。この時代、後に「・・・京」と呼ばれる都市は日本には存在していない。もともと京という言葉が中国伝来のものである以上、日本列島(倭国)に初めてできた条坊制の大都市を「倭京」と呼ぶことは十分ありうることである。そして、九州年号には「倭京」(618-622)という年号がある。あるいはこの時代に都市建設が始まったのかもしれない。
一方で、万葉集には大宰府が「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた事実が残されている。通説では、「遠の朝廷」を朝廷の地方出先機関と解しているが、朝廷とは天子が政治を行う場所のことであるから、天子がそこにいない「朝廷」は本来ありえない。「昔の首都」という趣旨で理解することも可能な言葉である。
私は、663年の白村江敗戦までの日本列島は九州・畿内・関東政権の連合体であり、代表する政権は九州・倭国であったと考えている。百済救援に向かった九州・関東の軍勢が壊滅的打撃を受け、勝者である唐が彼らの存続を望まなかったから、漁夫の利を得る形で畿内政権が日本列島を代表することとなった。だから旧唐書に、「日本はもともと小国であり、倭国を併合して大きくなった」と書かれているのである。
近畿軍団が勢力を温存するにあたり、「司令官が急死した」「喪中である」等々姑息な言い訳を使ったことは、日本書紀の内容から推測できる。そしてそれより大きいのは、調謀、状況分析の巧みさである。百済べったりの九州倭国に対し、近畿大和朝廷は新羅とのパイプも太く、朝鮮半島の情勢もより的確に把握していたとみて間違いなさそうだ。
そして白村江以降は、空白地帯となった九州・関東への支配を強め、戦後処理の多くをそれらの地域に押し付けながら(国境警備や難民受け入れが記録に残るが、おそらく戦後賠償もだろう)、勢力を確立したのである。これだけやれば、「腕ッ節では敵わないが頭が違う」と思ったとしても仕方がないし、そういう潜在意識が後の時代にも反映されたとみることができる。
9.0.6 ルパン「813」にみるフランスと大和朝廷の類似性
さて、話は最初に戻ってルパンの「813」。ここで述べられているのはフランスは腕ッ節ではドイツに敵わないが、頭では勝てるという意識である。ルパンが書かれたのは第一次世界大戦前後の時期であり、同大戦で実際にフランスは勝ちドイツは負けた。しかしそれに先立つ1870年の普仏戦争では、ドイツが完勝しフランスは政権(第二帝政)が崩壊しているのである。
最初に述べたように、フランスはゲルマン民族大移動の時代に起源を持ちヨーロッパでは指折りの古い歴史のある国であるが、軍事的に周辺諸国を制圧した時期はほとんどない。そもそもフランク王国自体が、ゲルマン本流というよりローマ時代に移住していた支族により作られたものとされている。
そして、スペインやイギリス、ドイツは世界的に勢力拡大した時期があったのに対し、フランスが周辺諸国を軍事的に圧倒したのはナポレオン1世が短期間成し遂げたくらいであり、ナポレオン自身もコルシカ島(イタリア)出身であることはよく知られている。つまり、フランスも発祥以来軍事的に強かった時代はほとんどないのである。
にもかかわらず、二度の世界大戦をともに戦勝国として終わり、アジア・アフリカに広大な植民地を有し、いまなお国際的に発言力の大きい国の一つである。「腕ッ節では敵わないが、頭が違う。最後に勝つのはわれわれだ」とルパン(ルブラン)が思うのも十分に根拠があると言わざるを得ない。
そして、このルパンとよく似た意識・発言をしているのが太平記の楠木正成なのである。
弱い大和朝廷がなぜ日本を統一できたかというと、「腕では勝てなかったが頭で勝った」「九州・関東が自滅したチャンスに空白を埋める形で権力を把握した」という答えがもっともありそうなことである。そして、これはそのまま、平安時代を通じて全国を支配した貴族(藤原一族)の考え方でもある。
だから、時代が移って「頭よりも腕ッ節」の時代になると、関東・九州の強兵に畿内は圧倒されることとなった。楠木正成も、結局は関東の足利尊氏に敗れて討ち死にしたのである。それ以降どうやってこれらの勢力が生き残りを図ったかというと、それは「権威」と「経済力」なのである。このことについては、また改めて考えてみたい。