阿蘇山    写真:Wikipedia
カルデラ式火山である阿蘇山は、富士山のような独立峰とは異なり遠くから目立つ山ではない。写真は外輪山からみたカルデラと内輪山。この山を特にとりあげる以上、隋からみた倭国は九州ではないか。

4.2 隋書に書かれていること

4.2.1 隋書にみる倭国の位置と歴史

魏志倭人伝は逐語訳が多く書かれているし、引用する人に都合のいい解釈が目立つにしてもおおむね原文に沿った解説がなされている。ところが隋書については、例の「日出処天子、致書日没処天子」「蛮夷書有無礼者、勿復以聞」の部分はピックアップされるものの、全文を検討されることはあまりない。以下ではその内容について詳しくみてみたい。

隋書の倭国に関する記事は、列伝四十六・東夷伝の中に、高麗(高句麗)、新羅、百済、靺鞨(まっかつ、後の渤海)、琉求(琉球)に次いでほぼ四節二千字あまりの記事が書かれている。

倭国についての記事を内容ごとに区分すると、第一節では、過去の史書の記事から倭国の成り立ち、風俗について概観したのちに、第二節で開皇20年(西暦600年)の倭国使者の朝貢について説明する。そして第三節で大業6年(607年)の国書事件、翌大業7年(608年)の裴世清による倭国訪問について詳しく述べている。

まず第一節、ここでは倭国の位置と歴史についての概要が書かれている。訳してみると、以下の内容である。

倭国は百済、新羅の東南の方向、海と陸とを合計して三千里の距離がある。島や山の中に住む。魏の時代に、三十国あまりの国が使者を送ってきたが、それぞれの国の主は「王」と名乗っていた。

蛮人であるので距離を里で測ることはできず、何日ということしか分からない。彼らによると、国の大きさは東西が5ヵ月、南北が3ヵ月、国境はそれぞれ海であるという。地形は東が高く、西が低い。

魏志では国境から1万2千里とされていた倭国との距離が、隋書では3千里となっている。これは、魏の時代の1里70~80mから隋の時代には1里約300mに単位が変わったためと考えられる。このことは、魏志では東西4千里とされていた朝鮮半島の東西幅が、隋書では1千里となっていることからも裏付けられる。

国の広さは、魏志と比較すると広がっている。東に高地があり西に低地があるというのは、隋の使者(後に裴世清らが実際に倭国を訪問する)が実際に見て感じたところを記録したものかもしれない。

都が九州にあったか大和にあったかはひとまず置くとしても、近畿・中部の境である琵琶湖沿岸あたりから鈴鹿山脈、さらに続く飛騨・木曽山脈を見たとすれば、この国の東は高地であると思って不思議ではない。実際にはさらに東に最大の平地である関東平野があるのだが、隋の使者はそこまでは行っていない。

この国の都はヤマタイにある。魏志いうところの邪馬台国である。昔の記録によると、楽浪郡・帯方郡から一万二千里、会稽の東にあたるという。漢の光武帝の時代に、使者を派遣してきたが、その時は大夫と名乗っていた。安帝の時代に再び使者を派遣し朝貢してきたが、その際には倭奴国と名乗った。

ここで注意すべきなのは、隋書の作者、つまり中国側では、漢の時代、紀元1世紀から倭人と中国の関係は続いていて、名前は違っても相手は一緒であると認識されていることである。だから、金印を授けられた倭奴国も、卑弥呼の邪馬台国も、これから記事のあるアマ・タリシヒコの国もすべて同じ国であり、都も同じ場所にあると言っているのである。

日本の古代史では、金印は九州の奴国で、邪馬台国は九州か大和か不明、アマ・タリシヒコは大和の聖徳太子ということになっている。しかし、少なくとも中国においては、後漢の光武帝以来朝鮮半島の南にある倭国から朝貢があって、その国は奴国の後継国家であると考えられていたことはこの記事だけみても明らかである。

桓帝・霊帝の時代に倭国は戦争状態となり、その間、国の主はいなかった。その後、卑弥呼という女子が、鬼道で大衆を惑わし、倭国の人々は卑弥呼を王とすることにした。その弟が卑弥呼を補佐して国を治めた。

仕えた侍女は千人に及んだが、卑弥呼と直接会うことはできず、それができたのは男子二名のみで、その二人が給仕や連絡にあたったという。王宮は荘厳であり、その周りを兵が守衛していた。魏の後の時代にも、斉、梁の各王朝に倭国は朝貢してきた。


倭国大乱の後、小国の連立政権として卑弥呼を立てたこと、その卑弥呼は、鬼道(シャーマニズム、予言や祈祷)に巧みで人心を掌握したことはすでに魏志で詳しく述べられており、隋書はその記事から引用・抜粋している。

卑弥呼の後の時代に、中国南朝の斉や梁に使者を送ったのはいわゆる「倭の五王」である。この五王を大和朝廷の王と説明しようとすると、どうしてもうまくいかない。国書で述べられている系図と日本書紀の歴代天皇の関係が一致しないからである。そしてこの五王も、隋書ではこれまでの倭国の使いと同じところから来ていると考えているのである。



4.2.2 開皇二十年(600年)の遣使~倭国の王宮

続く第二節では、開皇二十年(600年)の倭国からの遣使について書かれている。

開皇二十年、倭王の使者が皇帝に拝謁した。王の姓はアマ、名はタリシヒコ、オオキミと名乗っている。

「オオキミ アマ・タリシヒコ」の名乗りは、口頭だったのだろうかそれとも文書だったのだろうか。この部分には文書とは書かれていない。

けれども、次の節には国書が出て来て、例の「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な文句がある。隋書の一連の記述は隋の滅亡後に書かれているので、当然、国書に記載された名乗りで統一されたはずである。とすると、「オオキミ アマ・タリシヒコ」は、倭国の国書に書かれていたと考える他はない。

皇帝(文帝)がその風俗について役人に尋ねさせたところ、使者はこう答えた。「倭王は兄を天といい、弟を日といいます。天はまだ暗いうちに起きて跏趺坐(かふざ)し、まつりごとを行います。日が昇ると仕事を終わり、後は弟に任せるのです」 これを聞いて高祖(文帝)は言われた。「全く意味がない」 訓令を発してこれを改めさせた。

①倭国は二人の兄弟が治めていること。②兄は日の出前に祭事を行い、実務は日が昇ってから弟が処理しているとみられること。③皇帝がこれを良くないと感じ、改めさせたこと。が述べられている。また、兄が行うという跏趺坐は結跏趺坐、つまり座禅のことと思われ、神式の祭事と仏式の祭事を行っていたのではないかと推測される。

アマ・タリシヒコが聖徳太子とは考えにくいことについてはすでに述べたとおりだが、この内容だけみても、日本書紀の記載では全く説明になっていないことが分かる。①~③のどれについても、日本書紀の推古天皇と聖徳太子の記事とは内容が一致しないからである。

ここで一つ疑問があるのは、隋の文帝は何を指して「全く意味がない」と言ったのかということである。ちなみに、文帝は隋の初代皇帝で、国書事件のときの皇帝・煬帝の父にあたる。

日の出前に祭事をし日の出後に政治を行うことにはそれほど違和感は感じられない。祭政が分離しているのも、意味がないとはいえないだろう。考えられるのは、王が二人いるのはどうなのかということであるが、いずれにしても君主は中国皇帝で、兄王も弟王も臣下なのだから、それほど神経質になることはないような気がする。

王の妻をキミといい、後宮にいる女子は六、七百人である。太子の名はリカミタフリという。王宮に城郭はない。

後宮の女子はすべて倭王の妻ということではなく、オオキミ(倭王)やキミ(正妻)、太子に仕える人々の総数なのかもしれない。6~700人というのはかなりの規模であるが、江戸時代の大奥の女性の数が数百人、最盛期には千人近くいたらしいから、ありえない話ではない。いずれにしても、倭王は男性であり、妻と後宮があって、子供は太子、つまり次期倭王として育てられていると隋書では言っている。

このことは、後に隋の使者、裴世清(はいせいせい)が実際に倭国を訪れていることから間違いないし、辺境の倭国が隋にすぐ分かる嘘を報告するとも思えない。ところが、倭国も使者も、当時の推古天皇(女性)のことには全く触れずに、「倭王は聖徳太子である」と嘘をついていたと主張するのが日本古代史の通説なのである。

役人には12の位がある。上から大徳、小徳、大仁、小仁、大義、小義、大礼、小礼、大智、小智、大信、小信である。定員はない。軍隊は120人の軍尼(ぐんに=将校)からなる。軍尼は隋の牧宰の位に相当する。80戸ごとに1人の伊尼冀(いにき)、すなわち里長を置き、1人の軍尼は10人の伊尼冀を所管する。

倭国の官僚と軍制について述べている。12の位は聖徳太子の冠位十二階と同じ数であるが、順序が微妙に異なる(聖徳太子は徳、仁、礼、信、義、智の順)。また、軍制における軍尼、伊尼冀は日本書紀にはない職名である。この数からすると、倭国の戸数は9万6千戸ということになる(80X10X120=96,000)。

魏志倭人伝における邪馬台国周辺の戸数は、邪馬台国・投馬国・奴国でおよそ15万戸であったから、ほぼその人口に匹敵すると考えてよさそうである。とすると、邪馬台国の時代から大きく領土を拡張したとは考えにくい数字であり、大和、ましてや毛野に至る大和以東の領域が含まれていたと考えるのは難しいのではないだろうか。

4.2.3 倭人の服装と武器

第二節後半部では、倭人の服装と武器について述べられている。

倭人の服装はというと、まず男子はわずかに袖のある襦袢(じゅばん)を着ている。足は、漆を塗ったくつ型のはきものの上に乗せている。庶民の多くは裸足であり、金銀を飾り付けることはない。

昔は、縫っていない横長の布を結んで着て、頭は冠をつけず髪をまっすぐ耳の上に垂らしていたというが、いま(隋)の時代には、王は冠をかぶり、錦や金銀で飾りつけをしている。

魏志倭人伝の時代には、倭人は布を縫わずに結んだり、袋状にして頭の部分に穴を開けた貫頭衣(かんとうい)を着ていたとある。それが、約300年の月日を経て、男も女も縫った着物を着ることができるようになった。しかし、それは単(ひとえ)の着物で、今で言うところの肌襦袢だけだったようである。

履(くつ、はきもの)についての記事を読むと、足を入れる今日の靴ではなく、サンダルをはいていたようである。しかも漆塗りというから、なかなかのものである。はきものの本来の役割は足を傷つけないということだから、靴を作れなければサンダルをはくというのは、理に適っている。

金銀についても、王だけではあるが、飾りつけに用いることができるようになった。それだけの経済力を持ったということである。金銀で飾り付けた王冠というと、思い出すのは藤ノ木古墳から出土した王冠である(こちら)。時代的にはほぼ同じ時期にあたり、倭王もああいった装飾のある王冠をしていたということである。

さて、繰り返すようだが、隋の使者は実際に倭国を訪問して倭王に会っている。だから、この服装の記事についても、開皇20年(西暦600年)には伝聞したものにすぎなかったかもしれないが、大業4年(608年)には斐世清が実物を確認している。したがって、倭王は国王として王冠をしていたことは間違いない。

王冠は倭王に限らず王者の象徴である。仮に隋をだます必要があったとしても、天皇でもない聖徳太子が、金銀で飾った王冠をして隋使に応対したというのは、かなり考えにくいことである。

婦人も同様に襦袢(じゅばん)を着ていて、すそを細かく切って飾っている。竹を細くけずった櫛(くし)がある。草を編んでこもを編み、表面は皮でおおい、縁は模様のある皮を使っている。

婦人の服はただ縫うだけでなく、飾りつけをしていたとある。また、草を編んで簡単な敷物も作っていたようで、おそらく王や豪族の家の床は、板張りの上に敷物を敷いていたものと思われる。

武器には、弓矢、刀、矛、石弓、斧がある。皮に漆を塗って防具とする。鏃(やじり)は骨で作る。軍隊はあるが、戦争はない。倭王が閲兵する際には、兵は整列して演奏する。倭国の人口は約10万戸である。

隋も他の中国王朝と同様、周辺の他民族が国境から侵入することには常に警戒感を持っていたと考えられる。だから、軍備(人員や装備)は最も関心の深い事項であった。

古事記にはすでに鏃(やじり)を鉄や銅で作ったという記事があるが、隋書をみると一般的には骨であったようだ。鉄や銅は貴重品だったので、ありそうなことである。防具は皮革製であり、これは鎌倉時代以前は基本的に変わらない。人口は約十万戸とあり、前回の記事から推定される9万6千戸とほぼ一致する。魏志倭人伝の頃の戸数とほとんど変わらない。



4.2.4 倭国の警察・治安・気候

続く第三節では、倭国の風俗について述べられているが、魏志倭人伝と共通するところと、かなり様子が違っているところがある。ここに書かれていることは、「日本列島のどこに」隋の使者が来たのかを推理する有力な材料となる。

倭国の刑について述べると、殺人強盗を行ったものは死罪となる。他人の物を盗むと賠償しなければならず、賠償できない者は奴隷となる。

以下、罪の軽重に応じて、流罪や杖(たたき)の刑がある。取調べにおいては、膝に木を挟んだり、首に弓の弦をあてる。あるいは沸騰した湯の中の小石を取らせたり、甕の中に入れた蛇を取らせる。無実であれば無事であるはずだからだ。倭国は争いも盗賊も少ない。

倭国の警察・治安についての記事である。倭国の治安が優れていることは魏志倭人伝にも述べられていたことであるが、隋書でも同様である。取調べにおいて、「沸騰した湯に手を入れて火傷しなければ無実」というのは、日本書紀において盟神探湯(くかたち)と呼ばれる神事である。

日本書紀で盟神探湯は、どちらかというと民事の争いや氏姓の正誤を証明するために行われるが、隋書の記事ではむしろ刑事において用いられるニュアンスである。物理的にいって、湯の中に手を入れればほとんどの場合は火傷するから、疑われたら有罪ということである。洋の東西を問わず、近代以前には裁判がないので、そういうケースが多かっただろう。

楽器には五弦の琵琶、琴、笛がある。男も女も多くの人が顔や全身にいれずみをしており、水に潜って魚を捕る。

かつては文字がなく、木に刻んだり縄の結び目を文字の代わりにしていたが、仏教が百済から伝わると、仏典を通じて文字を知った。倭人は占いや巫女のお告げを信じる。正月には射的をして遊び酒を飲む。節句も中国と同様である。碁やすごろく、ばくちが好きである。

この段落でも魏志倭人伝と同じく、倭人のいれずみについて述べられている。併せて、そのいれずみが主産業である漁業に由来することも述べられている。もし、この時点で倭王の使者が大和=奈良県から来ているとすれば、海のない大和でなぜこのような表現にしたのだろうか。繰り返しになるが、隋使はのちに倭国を訪問しているのである。

ということは、隋が認識していた倭国というのは、海の間近にある地域=九州北部である可能性が大きい。そして、この時代でも多くの人がいれずみをしていたのであれば、そのことが日本書紀などに書かれていないのは不自然である。つまり、日本書紀の書かれた地域と、隋の使者が訪問した地域は違うということになる。

気候は温暖であり、草木は冬でも青々としている。土地は肥沃であるが、海が多く陸地は少ない。鳥の首を環で繋いで魚を捕らせる漁法があり、一日に百尾以上を捕えるという。まな板はなく、樫の葉の上で調理する。倭人の性格は温厚で、おくゆかしい。

ここでも再び倭国=大和と考えるには難しい内容が続く。魏志倭人伝で考察したように、大和は冬でも草木が青いというほど温暖ではないし、そもそも内陸部である(大和であれば冬は寒い。真冬日が年平均46.8日ある。)。そして、仮に隋使が九州から大和まで日本列島を横断したとしたら、果たして「海が多く陸地は少ない」という感想となるかどうか。

今日の鵜飼いにあたる漁法があるのは面白い。今日ではこの漁法は長良川(岐阜県)くらいしか残ってはいないが、もともとこれは中国から伝わってきたものであり、福岡県や大分県、京都府などにも近年まで残っていたようだ。ただし、大和に限定するのであれば、鵜飼いを行うような大河の下流域はない。

そして、第三節の後半部分では、さらに隋使が訪れたのは九州としか思えない記事が続く。

4.2.5 倭国の冠婚葬祭、阿蘇山

第三節の後半では、冠婚葬祭について述べている。

倭国は女が多く男が少ない。同姓の男女は結婚しない。男女がお互い気に入ればそこで結婚する。妻が夫の家に入る際、必ず犬をまたいでから入るという風習がある。婦人は浮気をしない。

同姓の男女は結婚しないというのは、いまでも韓国で残っているように、古くからの朝鮮半島の風習である。ここで特にこのことが述べられているということは(魏志にはこの記事はない)、隋の時代の倭国のことを言っていると考えて間違いない。

しかし、日本書紀で明らかなように大和ではそうした婚姻制限はない。推古天皇自身が父の同じ(異母兄)敏達天皇の皇后だし、古代天皇家や貴族の間に近親婚のタブーはほとんどみられない。結婚できないのは同腹の兄弟姉妹くらいである(允恭天皇の皇太子である軽皇子[かるのみこ]は、妹のソトオリヒメを妻としたため罰せられた)。

死者は棺におさめ、近親者は死者の前で歌ったり踊ったりする。妻子と兄弟は白い衣を着る。貴人の場合は3年、庶民は数日間の喪に服する。葬送は死者を舟に乗せて陸地を引いていく。あるいは輿(こし)に乗せることもある。

死者と葬儀についての記事である。魏志と異なり古墳をうかがわせる記事がみられないが、この時期アマ・タリシヒコをはじめとする王族に大きな葬儀がなかったのだろうか。

推古天皇の時代には、敏達、用明、祟峻の3天皇(いずれも推古天皇の兄弟)が相次いで亡くなっているし、もし明日香にある石舞台古墳が蘇我馬子のものだとすれば、やはり同時代のことになる。隋の使者が大和に行っていれば、そのことについて書かれていそうなものである。

阿蘇山がある。突然、石を吹き上げ火は天に届くほどである。人々はこの山を大変恐れており、山が鎮まるよう祈祷や祭を行う。

隋使が九州を訪れたという最大の根拠がこの記事である。阿蘇山は現代と全く同じ地名であり、九州の中央にある山であることは疑いようもない。

関東に住んでいると、富士山はどこからも見える。だから阿蘇山が九州における富士山と思いがちだが、実はそうではない。阿蘇山は富士山のような独立峰ではなくカルデラ式火山である。九州に行けばどこでも見えるという訳ではないし、見えたとしても外輪山なのである。

もちろん、古代にはビルや高い建物はないし、近代でも阿蘇山の噴煙が中国地方まで見えたというから、その存在に気づかないということはない。しかし、阿蘇山そのものを見るにはかなり九州中心部まで入らなければならない。関門海峡から瀬戸内海に進んだのでは煙は見えても山は見えないのである。

この記事にはかなりのリアリティが感じられる。阿蘇山を神として祀る人々は、常識的に考えて九州北部から中部の住民でしかありえない。大和の人々が阿蘇山を祀るはずがない。ということは、隋書は九州について書いてあるという結論になる。

如意宝珠という宝石がある。色は青く、卵くらいの大きさである。夜になると、まるで魚の眼のように光る。新羅・百済にとって倭国は大国である。高価な品々も多くあるので、倭国に使者を送り行き来している。

如意宝珠という宝石について、記紀では何も触れていない。あえて探すとすれば三種の神器の中の八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)であるが、卵くらいの大きさで夜になると光るというから、考えられている勾玉のイメージとは異なる。八尺瓊勾玉は皇居に納められているご神体であり、実際にどういうものであるかは、それが宝石なのか印なのかも分からないのである。

新羅・百済にとって、最大の国はもちろん中華=隋であるが、倭国に対してもそれなりの敬意をもって(大国として)接していた、と書かれている。朝鮮半島と頻繁に行き来できる地域といえば、もちろん九州北部ということになる。高価な品々というとまず思い浮かぶのは金であるが、日本列島ではかなり古くから砂金が採られたことが知られている。


[Mar 11, 2016  , original Nov 11,  2008]

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