明日香村・石舞台遺跡
天武朝の首都が置かれた明日香。この石舞台は蘇我馬子の墓とも伝えられるが、蘇我氏滅亡後も存続を許されたのはなぜだろうか。なお、この写真は2002年撮影。現在では手前の樹が茂って外からは見えません。出典:(個人撮影)

5.6 壬申の乱再考

5.6.1 壬申の乱の真相

前回まで、白村江の戦い(西暦663年)以前に日本列島を代表する政権は九州に本拠を置く倭国であること、そして、白村江の際に唐・新羅と内通し、戦いに直接参加しなかった天智天皇の大和朝廷=日本が、それ以降、唐・新羅の支援の下で日本列島を代表する政権となったのではないかという仮説を述べてきたところである。

この仮説の裏付けとなるのは、唐の国書である「旧唐書」の記載、それと、古代の国際関係からみて、戦争に敗れた政権がそのまま権力を維持することを敵国が認めるはずがないという常識的な判断である。しかし、これは教科書で教えている日本の古代史とは全く異なる。

ただ、この仮説を採ると、白村江前後の政治的問題以外にも、飛鳥時代から奈良時代にかけての古代史の疑問点がいくつか解決される。

例えば、西暦592年に起こった祟峻天皇暗殺事件。これは、ときの最高権力者であるはずの天皇を、臣下である蘇我馬子が首謀者となって暗殺した事件である。そして、なんと暗殺事件の後、馬子は推古天皇、摂政・聖徳太子の下、大臣(おおおみ)として実権を掌握するのである(ちなみに、馬子が首謀者であることは日本書紀に書かれており、この点には争いがない)。

この時点で大和朝廷が代表政権であり、祟峻天皇が最高権力者であったならば、これは「国家の転覆」を図るものであり、暗殺の首謀者が次の政権で重用されることは考えられない。ところが、地方政権の内輪もめであると考えれば、しばらく後に平将門が関東で国司を追放したケースとよく似ていることが分かる。

将門は最終的に新皇を名乗り中央に反抗したので討伐されたが、その時点では現状追認の動きもあった。同様に、地方政権の内輪もめと周りが認めてくれて、実際に混乱なく治まっているのであれば、「中央政権」が現状追認したとしてもおかしくはない。少なくとも、国家の代表者を暗殺した犯人がそのまま権力中枢に居座るというよりも現実的である。

そして、その仮説を前提とすれば、その性格が相当に違ってきてしまうのが壬申の乱である。教科書が教える壬申の乱とは以下のとおりとなる。

西暦671年、天智天皇の崩御により、大津宮の大友皇子と吉野宮の大海人皇子の対立が深まった。大友皇子は吉野に進撃を試みるが、大海人皇子はこれを逃れ、軍を整備して逆に大津宮へ攻め上り、両軍は尾張・近江国境付近で交戦した。これに大海人皇子は勝利し、天武天皇として即位した。大友皇子は敗死した。

日本書紀には概略このように書かれているが、天智天皇が亡くなってから天武天皇が即位するまでの間、誰も天皇でないのはおかしいということになり、千数百年後の明治時代になって大友皇子が弘文天皇と呼ばれることになったのはご存知のとおり。ただ、真相としてはおそらく天皇位の空白など、当時誰も気にしていなかったはずである。

そもそも大和朝廷が権力を掌握したのがつい7、8年前のことであるならば、そのままの形で1400年以上続くことなど、当時は誰も想像すらしていなかったと考える方がずっと常識的である。

では、実際には壬申の乱の真相はどういうものだったのだろうか。次回以降考えてみることにしたい。



5.6.2 日本書紀における壬申の乱直前の状況説明は信用できない

壬申の乱について書かれているほとんど唯一の史料は、日本書紀の天武天皇紀(上)である。何度も繰り返すが、日本書紀は大和朝廷以外に日本列島には政権はなかったという建て前で一貫して書かれているので、どこが本当のことでどこが創作なのかを区別して読む必要がある。正直なところ、過去の日本書紀論はこの点の踏み込みが不十分なのである。

さて、そうした観点から日本書紀を再検討すると、その背景を書紀では説明していないか、説明してあっても全く納得できない(おそらく一部は事実であり、一部は事実でない)事柄として、例えば以下の点を上げることができる。

ア. 天智天皇は、前代の斉明天皇が亡くなった西暦662年以降即位せずに政務をとり(天智称制)、668年1月に即位した。

太平洋戦争に匹敵するヒト・モノ・カネを掛けた国家の一大事である白村江の戦い(663年)時点で、正式な国家元首も軍最高司令官もいないことなどありえない。少なくとも、敵国(戦勝国)はそれでは許してくれない。この事実を常識的に説明できる理由は、天智天皇は白村江の敗戦を受けて、この時点で国家元首となったということ以外に考えられない。

イ. 天武天皇は天智天皇の同母弟で、天智天皇即位とともに東宮(次期天皇)となった。

天武天皇は、正妃の莵野皇女(うののひめみこ、後に持統天皇となる。神田うのの名前の出典であることでも有名)はじめ、天智天皇の娘を4人も妻に迎えており、同母兄弟とは考えにくい。また、天智天皇自身に大友皇子(弘文天皇)はじめ何人も男子がいるのに、わざわざ弟を後継者に指名するのも疑問である。

従って、日本書紀の以上の記事は、建て前を守るための創作である可能性がきわめて大きい。だから、壬申の乱直前の状況として、確からしいと認められるのは以下の点くらいである。

① 西暦668年の時点で、天智天皇が日本列島の国家元首となった。

(この年、高句麗が滅亡して新羅が朝鮮半島を統一。また、この時点で唐軍が九州に駐留していることを勘案すると、ここで大和朝廷が対外的に日本列島を代表する政権となったと考えられる。)

② 政権内部で天智天皇に次ぐ実力者として、天皇の子である大友皇子(弘文天皇)と、弟とされる大海人皇子(天武天皇)がいた。

(天智天皇と大海人皇子が実際にどのような血縁関係であったかは不明。ただし、いくつかのヒントがあるので後で考察する。いずれにしても、この2勢力は、婚姻関係で何重にも関係を強化しており、政権内の実力者であったことは間違いない。)

③ 国力のすべてを注ぎ込んだ白村江の敗戦と、唐軍の進駐、土木工事(水城)や軍役の強制(防人)が重なり、日本列島の人々は相当な負担にさらされていた。

(これは、書紀の記事を読むだけでも確かだし、戦争に負けたらこうなることは避けられない。)

こうした中、正式に即位してからわずか4年、天智天皇が崩御される。後の史料に暗殺説も出ているくらいで、不穏な情勢の下での死去であったことは間違いない(これも何度もくり返すが、天智天皇の在位中に特筆すべき業績はない)。間髪を入れず、近江の大友皇子と吉野の大海人皇子の対立が激化する。

普通に考えれば、これは後継者争いということである。



5.6.3 大海人皇子の進路は、家康の本能寺直後とほとんど同じ

天智天皇の死後、激しく対立することとなった大友皇子と大海人皇子。結果として大海人皇子が勝利することになるのだが、争いの当初はむしろ大友皇子が優勢だったとみられる。というのは、大友皇子が吉野を攻撃する際に、大海人皇子が吉野から伊賀を経由して尾張へ逃れたことが記録されているからである。

672年5月、近江の大友皇子が挙兵の気配を示し、吉野に向けての街道筋に斥候を配しているのを確認した大海人皇子は、このように号令した。「近江方は、我々を攻撃しようとしている。黙って滅ぼされる訳にはいかない。早急に美濃へ向かい、挙兵して不破関を封鎖せよ」そして、自らも東国へ入ることを決断した。日本書紀・天武天皇紀上

大友皇子は今でいえば、東海道線で大津から京都、さらに近鉄で奈良方面への進出を図ったことになる。一方の大海人皇子は大友皇子が奈良県に入る前に、大和八木から近鉄名古屋線で逃げたということである。不破関は近畿から東国への出入り口に当たり、ちょうど関が原付近になる。

この大海人皇子の進路は、およそ900年後の本能寺の変に際し、徳川家康が堺から三河へと少人数で命からがら逃亡した経路とほとんど同じである。つまり、大海人皇子の状況分析としては、後の徳川家康と同様、畿内は敵側の勢力範囲であり、ひとまず安全な東国に向かう以外に方法はない、ということであったと思われる。

壬申の乱の経過をきわめて大雑把にまとめると、奈良方面へ進出した大友軍を大海人軍が持ちこたえている間に、大海人軍の本隊が名古屋から大津へと反転攻勢をかけて大友軍を撃破し、大友皇子は敗れて自殺することになる。つまり大海人軍の主力は、東国にいたということである。この点も、後の家康と重なる。

つまり、天智天皇の死後、その路線をそのまま継承するはずであった大友皇子に、東国は味方しなかった。政治的には、東国は大海人皇子を支援していたということである。

この時代、九州の防備に防人(さきもり)を派遣している一大勢力は関東であり、これまで述べてきたように、関東毛野国は白村江以前には九州倭国に次ぐ勢力であったと思われる。その関東を含む東国を、大海人皇子は安全圏とみなしていたということになる。もちろん、天智天皇が政権を持っていた時代から、より関東に近い政治的立場にいたということであろう。

一方、近畿より西はどうなっていたかというと、こちらについても日本書紀に興味深い記事が書かれている。大友皇子が大海人皇子挙兵の一報を受けて、中国・九州に向けて使者を派遣するのだが、その際の経緯について以下のように述べられているのである。



5.6.4 中国と九州も大友皇子=天智後継政権に味方しなかった

大海人皇子が吉野から尾張へと近鉄名古屋線に乗って逃れたことを知った大津の大友皇子は、奈良方面に加えて東国への攻勢を強めるとともに、背後の吉備(中国)、筑紫(九州)に向けて援軍を命令した。その際、伝令として吉備に向かった樟使主磐手(くすのおみ・いわて)と筑紫に向かった佐伯連男(さへきのむらじ・をとこ)に、皇子はこのように命じたと日本書紀に書かれている。

「吉備・筑紫はもともと大海人皇子と親しい。もし命令を聞かないのであれば、その場で討ち果たせ。」日本書紀・天武天皇紀上

そして実際に、援軍を渋った吉備は討たれてしまう。しかし筑紫の栗隈王(くるくまのおおきみ)は、護衛を従えて不意打ちに十分に注意するとともに、このように回答して援軍を断ったのである。

「この筑紫の軍隊は、外敵に備えるために置かれているのであって、内乱に備えるためではありません。もしここで私が軍を動かした結果、国の防備ができず外敵の侵入を許したとしたら、その時になって私が何回死罪となったとしても取り返しがつかない。援軍要請には従うことはできない。」出典同じ

この栗隈王は、白村江敗戦後に筑紫率(ちくしのかみ)に任命されているので、大和朝廷が台頭した後の新勢力ということになる。また、この王は奈良時代の重臣である橘諸兄の祖父にあたる。もちろん、この援軍拒否(間接的に、大海人皇子の応援)の功績が認められたものである。

余談であるが、この栗隈王をはじめ、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての登場人物の系図は、あまりはっきりしないものがいくつかある。栗隈王の出自も、日本書紀そのものには書かれていない(後の記録に敏達天皇の子孫とある)。おそらく、そうした人物は、表立って日本書紀に書くことができなかった九州、関東系統に連なる有力者ではなかっただろうか。

もし栗隈王が敏達天皇の子孫だとすれば、天智天皇~大友皇子とはかなり近い血縁関係になるので、最初から、「彼らは大海人と親しいので逆らうなら殺せ」と言われてしまうような間柄ではないはずなのである(推古天皇の死後、敏達天皇系統と用命天皇系統の間で、皇位継承の争いがあった)。

壬申の乱に話を戻すと、近畿圏を押さえていた大友皇子に対し、大海人皇子は東国(主として関東)の軍事により対抗することを意図して東国に逃れ、中国・九州も大海人皇子支援の意思を明確にしたということである。そして次の段階では、大海人軍が関が原を越えて近江に進軍し、大友軍が敗北するという結果となる。

このあたりの経緯を最も常識的に判断するならば、白村江の敗戦を契機に、唐・新羅の後ろ盾の下に成立した大和朝廷=天智天皇系の覇権に対し、旧勢力である関東及び九州が“NO”の意思表示をしたということではないだろうか。その直接の要因は水城・防人といった敗戦による負担の増大であるが、心情的には白村江で多くの人々を見殺しにしたことへの反感があったのではないかと思われる。

そうした背景を考えると、栗隈王の援軍拒否の理由は意味深長である。表向きの意味の他に、「国境警備を命じたのはあなた方ではないか」「われわれの真の敵は海の向こうにいるのであって、こちら側ではない」という裏の意味が窺える言い分ではないか。そして、この言葉を発した栗隈王や天武天皇の出自もある程度推察できる。旧宗主国である九州倭国にきわめて近い勢力であると考えられる。



5.6.5 宇佐八幡の重視からみる天武皇統と九州の関係

大海人皇子が天智天皇直系の大友皇子を自殺に追い込むことによって、壬申の乱は決着することになったが、対外的にはそのまま公表することは難しかったはずである。というのは、唐の後ろ盾のもとすでに新羅による朝鮮半島統一が確立しており、今となっては反新羅・百済復興を主張したところで得るものはないからである。

そこで大海人皇子サイドとしては、対外的にはこれまでの路線を継承するとしたのではないだろうか。具体的には、「私は天智天皇の実弟であり、以前から後継者に指名されておりました」「天智天皇の死後、後継者を巡る争いがありましたが、従来決められていたとおりに決着いたしました」と、外向けには公表したのである。

つまりこれが、日本書紀にそう書かなければならなかった真相であろう。実際には、天智天皇後継には大友皇子が指名されていたはずだし(だから明治時代になって弘文天皇として歴代に加えられた)、大海人皇子は正式な後継者ではなかった。まさに、琉球第二尚氏が明に報告したのと同じやり方なのである。

だから、天武天皇(大海人皇子)が天智天皇の同母弟であるというのは日本書紀の建て前であって、事実とは考えられない。後の時代の史書に天武天皇の方が年上という記録がある上、天智天皇が4人もの娘を天武天皇の妃としていることからも、そのことは推定できる。

それでは、天武天皇とはどういう背景を持つ人物だったのだろうか。そのことを考察する上で重要であるのは、壬申の乱から約100年経過した、奈良時代末の混乱の際の対応である。

天武天皇の皇統は、聖武天皇の時代に絶頂期を迎える(この時代に、東大寺の大仏が完成)。しかし、その娘である高野天皇(たかののすめらみこと、孝謙・称徳天皇)をもってこの皇統は断絶する。その際、天皇は全く血縁関係のない道鏡法王を後継者に指名しようとするが、ここで舞台となったのが宇佐八幡宮である。

八幡神とは、応神天皇(ホムダ王)のご神霊であるとされる。応神天皇自身、その子である仁徳天皇(オオサザキ王)に比べると、畿内政権に親しい天皇ではない(古事記における記事の量が全然違う)。

確かに、天智天皇も天武天皇も、応神天皇の子孫ではあっても、仁徳天皇の直系の子孫ではないという理由付けは可能である(仁徳皇統は武烈天皇までで断絶)。しかし、この事件の後、宇佐八幡宮が歴史の表舞台に登場しないのはなぜなのか。平安時代以降は、八幡宮といえば、平安京近郊の石清水八幡宮か、鎌倉の鶴岡八幡宮なのである。

つまり、天武皇統にとって九州宇佐というのはきわめて重要な八幡宮であるけれども、天智皇統にとってはそうではない、ということになる。



5.6.6 天皇位とはそもそも何だったか

現代のわれわれにとって、天皇位を考える上で暗黙の前提となっているのは、「千数百年以上にわたり、父系相続により受け継がれてきた由緒ある位である」ということである。しかし考えてみれば、奈良時代末にこの前提が同様に受け入れられていたかどうかは定かではない。

天武天皇の時代からは約100年、仁徳天皇(オオサザキ王)の時代からとしても約300年、いずれにせよ現代から考えるほど天皇の位は絶対不可侵ではなかった可能性がある。いわば、鎌倉幕府から江戸幕府くらいのスパンであり、そう考えれば血縁のない道鏡に譲位しようとした高野天皇の構想そのものは、坂本竜馬による新政府構想と大して変わらないものだったのかもしれない。

そもそも天皇位は、「畿内政権における最大資産家の財産承継者」であったのではないかと考えている。それに、天智天皇以来、日本列島を代表する政権として「全国から租税を収納する権利」が加わった。この2つの要素はそもそも別物で、後者を声高に主張するのは東大寺建設にあたっての聖武天皇の詔くらいからである。

だから、高野天皇(このときは孝謙天皇)も、恵美押勝(藤原仲麻呂)に後者の権利を与えた。それは、天皇位の本質(皇室財産の継承者)とは別だったからだと考える。そう考えると、推古天皇以来女帝が相次いだ理由もある程度推測できる。実際に戦争したり政治的判断を下したりする必要があればともかく、そうでないならば財産継承者が必ずしも男性である必要はないからである。

財産をマネージメントするのが女性であっても、あまり不都合は生じない。というよりは、夫が亡くなった場合の財産の継承は、最初から子供世代に行くのではなく、ひとまず妻に行われるのが現代でも普通である。飛鳥時代~奈良時代の皇位継承は、そうした要素が大きかったのではないかと考える。

そうした皇位継承の背景にあったのは、もともと畿内政権の支配者には「租税収納権」がなかったということではないだろうか。

この連載で述べてきたように、天智天皇以前には大和朝廷は代表政権ではなく(代表は九州倭国)、それが大和朝廷となったのは奈良時代以降であると考えれば、そういう結論に達する。地方からの納税について、直接の証拠が残っているのは奈良時代からである。地方からの物資が集積するため、初めて平城京のような巨大都市が必要となったのである。

そして、「天皇位」の根拠となる継承財産のそもそものいわれは、九州倭国が近畿に遠征した際の、現地司令部(いわば傀儡政権)であったことにあるのではないだろうか。そう考えれば、現地政権の初代である仁徳天皇(オオサザキ王)の伝説が多いのも納得できるし、何かあれば九州の父・応神天皇(宇佐八幡!)にお伺いを立てるというのも、畿内政権から大和朝廷に伝わるDNAだったとも考えられるのである。



[Nov 26, 2009]

NEXT