吉野ヶ里遺跡
弥生後期の大型集落遺跡。伊都国以降に示された各国のいずれかである可能性がある。(個人撮影)

2.2 邪馬台国の地勢

2.2.1 魏志東夷伝と倭

魏志倭人伝と呼ばれていることが多いが、実際には魏志東夷伝のうち倭人について書かれた部分(倭人條)である。したがって倭人伝を検討する前に、東夷伝全体について押さえておきたい。

前章で述べたように三国志は中国の三国時代を扱った正史である。三国時代とは、3世紀初めの後漢末の混乱から魏・呉・蜀の三国が建国され、それらが滅亡するまで約80年間のことである。

全65巻で、内訳は魏書が第一巻から三十巻、蜀書が第三十一巻から四十五巻、呉書が第四十六巻から六十五巻までとなっており、分量の差は国力の差と考えていいかもしれない。ちなみに、第一巻は武帝(曹操)紀、第六巻は薫卓伝、第七巻は呂布伝、第三十五巻は諸葛亮伝、第三十六巻は関羽張飛伝など、有名人が目白押しである。

さて、魏書の一番最後の第三十巻が烏丸鮮卑東夷伝で、これが東方の諸民族についての記載である。烏丸("からすま"ではなく"ウガン"と読むとされている)・鮮卑(センピ)は現モンゴルからロシア沿海州地域、そして東夷(トウイ)が遼東半島から朝鮮半島、日本列島にかけての国々である。東夷には夫餘、東沃沮などいくつかの国があって、朝鮮半島の高句麗、韓、そして倭の記事となる。

こうした構成から考えて、倭人伝は単独で検討するのではなく東夷伝全体の中で理解しなければならないことはいうまでもない。倭人伝は文字数として約2000。分量的には直前の「韓伝」と大した違いはない。そしてその韓伝の冒頭部分は、倭人伝を理解する上で押さえておかなければならない記述がある。

韓在帯方之南,東西以海為限,南與倭接,方可四千里。
韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなす。南は倭に接し、国土はおよそ四千里四方である。(拙訳、以下同じ)

帯方郡は、後漢時代に楽浪郡に次いで置かれた朝鮮半島における中国の出先機関である。その所在には諸説あるが、楽浪郡は現在のピョンヤン、帯方郡はソウル近辺であると考えられており、地勢的にみてそれほど大きく違っていることはないだろう。

ソウルから南の朝鮮半島は、現代の地図を見てもほぼ正方形で、「韓」がその地域を指すことは間違いない。そして、地図を計ってみるとその一辺は300km弱、つまり魏志でいう一里とは70~80mということになる。そして、韓の南は海ではなく倭、つまり朝鮮半島の南岸からは倭というのが当時の認識なのである。



2.2.2 倭国への道のり

「解読不可能」的な言い方をされることの多い邪馬台国の位置に関する記述であるが、実はその内容は非常に簡潔である。以下、そのキーになる部分を抜粋してみる。

① 従郡至倭、循海岸水行、暦韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国、七千余里。始度一海、千余里至対馬国、・・・方可四百余里。
帯方郡より倭に至るには、韓国を囲む海岸に沿って南また東に海を進み、倭の北岸にあたる狗邪韓国に到達する。ここまで七千里あまり。ここで初めて海を渡り、千里あまりで対馬国に至る。対馬国はおよそ四百里四方の広さである。

② 又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国、・・・方可三百里。
ふたたび海を渡る。この海の名は瀚海という。千里あまりで一大国に至る。この国は三百里四方の広さである。

③ 又渡一海、千余里至末盧国。
ふたたび海を渡る。千里あまりで末盧国に至る。

④ 東南陸行五百里、到伊都国。
東南に陸路を進み、五百里で伊都国に至る。

⑤ 東南至奴国百里。
東南に進み奴国に至る。百里。

⑥ 東行至不弥国百里。
東に進み不弥国に至る。百里。

⑦ 南至投馬国、水行二十日。
南に進み投馬国に至る。(水行二十日)

⑧ 南至邪馬台国、女王之所都。水行十日陸行一月。
南に進み、女王の都である邪馬台国に至る。(水行十日陸行一月)

⑨ 自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絶、不可得詳。
女王国より北については、そのおよその戸数や距離を記載することができるが、その他の国々についてはあまりにも遠く、詳しく述べることができない。

⑩ 自郡至女王国万二千余里。
帯方郡から女王国までは、一万二千里あまりである。

この記載は中国正史のものであり、文脈として全く意味がとれないということは考えにくい(日本の学者の多くはそう主張している)。意味がとれなければ直されたはずだし、この文章が長く読まれてきたということは、基本的に大きな写し間違いはない、つじつまが合う、と千何百年間の読者が感じてきたということである。

さて、この文章の最大の要点は、いうまでもなく⑩である。①から⑨までは途中経過に過ぎず、倭国について最も重要な情報は、帯方郡(ソウル)から約1万2千里離れているということである。そして、北岸の狗邪韓国(プサンあたり)まで7,000里だから、ここから邪馬台国までは12,000-7,000=5,000里。プサンを中心として半径350km(5000里×70m/1000)の円を描くと、南九州と広島あたりが何とか入るくらいの範囲にしかならない。

そして、その前の⑨に書かれているのは、「女王国より北の距離は分かる」ということなのである。では、①から⑧に書かれている内容は、⑨、⑩と矛盾しないかどうか。それぞれの内訳を足して調べてみると、以下のようになる。

(郡→女王国)=(郡→狗邪韓国)+(狗邪韓国→対馬国)+(対馬国)+(対馬国→一大国)+(一大国)+(一大国→末盧国)+(末盧国→伊都国)+(伊都国→邪馬台国)

12000+γ=(7000+α)+(1000+α)+(400+α+400+α)+(1000+α)+(300+300)+(1000+α)+500+β=11900+6α+β

(対馬国と一大国は島であるため、海を渡ってから次に海を渡るまで、島自体の広さ=四角形の二辺分の長さを移動する必要がある。)

奴国、不弥国、投馬国への距離が含まれていないが、これは連続した行程ではなく伊都国からの経路とも言われているが、上の式からみると有力な仮説であることが分かる。

この式に示されるとおり、全体も内訳の合計もおよそ12000里で一致する。「余」と記載されている部分(α)と距離が明記されていない伊都国から先の部分(β)については、端数調整(γ)の範囲内ということで、それぞれ百里未満と考えればここもつじつまが合う。つまり、正史である三国志の読者は千数百年間そのように理解してきたと考えてよさそうだ。

となると、先ほどの「釜山を中心に半径350kmの円内(5000里の直線距離)」からさらに範囲が狭まる。邪馬台国は九州に渡ってから、それほど遠くにはない、せいぜい70~80km(500+α+β≒1000里)以内ということになる。魏志倭人伝を普通に読めば、邪馬台国は九州北部以外と理解することができないのである。

では、何が長らく議論されてきたのか。それは、⑥、⑦に書かれている「水行」「陸行」の意味なのである。



2.2.3 魏志倭人伝に根本的な間違いはない

水行・陸行の議論に入る前に、いくつか補足しておきたい。まず、この「魏志倭人伝に大きな誤りはない」とする考え方は、1970年代すでに古田武彦氏によって提唱されている。にもかかわらずなぜ、この考え方があまり顧みられることがなかったのかというと、「東日流外三郡誌」の偽書騒動があって古田氏自身「キワモノ扱い」されてしまったことが大きい。

正直なところ、きちんとした資料(正史)がありながら、「この資料は間違っている」という前提で進められる議論というのは、どうかと思っている。そういう議論が許されるなら、どんな突飛な主張も成り立つことになるからだ。

また、前回示した計算のところで「伊都国」以降の距離を合算していないが、これはよく知られているところの「放射説」を採るものである。つまり、伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬台国と書いてある順に進むのではなく、伊都国を出発点として、伊都国→奴国、伊都国→不弥国、・・・、伊都国→邪馬台国と進むという考え方である。

ただし、これについてはあまりこだわる必要もないと考えている。倭人伝の記述の中に、「帯方郡の使者が倭国に派遣される際には、伊都国に滞在する」とあることから、倭国内の移動は伊都国を出発点とみるのが自然だが、いずれにせよ百里二百里(7~15km)の世界であり、大勢に影響はない。

さて、邪馬台国への途中で記載された国がそれぞれ何処にあたるかということだが、狗邪韓国が朝鮮半島の南東端、釜山とかその近辺であることは明らかだし、そこから海を渡って70kmあまりの対馬国がそのまま対馬であることも間違いない。また、対馬国から南に九州方面を目指せば次は壱岐島で、これが一大国であると考えてよさそうだ。

そして、この一大国が「魏志倭人伝間違い説」の一つの根拠となっている。これが壱岐であることは間違いないのだから、一大は一支の誤りであり、同様に倭人伝は間違いだらけというのだが、こういう主張が俗に言う「ためにする」議論というのだろう。地名というのは言葉や文化が違えば聞こえ方が違うだろうし、中国では「一大」日本では「一支」ということもないとはいえない。また、そもそも辺境の地名を中国側で検証しようがない。それに、仮に写し間違いがあったとしても、ここが違っていたからといって全体の文脈に何の影響も及ぼさないのである。

さて、一大国から九州に渡ってからがはっきりしない。末盧国は松浦と考えるのが自然だが、それがいまでいう北松浦半島なのか東松浦半島なのか。後に豊臣秀吉の「唐入り」の際、半島進出の拠点となった肥前名護屋城は東松浦半島にあり、ここが最短距離なのだが、東松浦半島から壱岐までは「半島→対馬」「対馬→壱岐」の距離と比較してかなり短く、同じ千里と書いてあることからすると若干疑問が残る。

とはいっても、これも議論の大勢に影響はない。帯方郡から邪馬台国の「一万二千里」のうち、狗邪韓国まで約七千里、そこから末盧国まで約四千里なのだから、ここから邪馬台国までは残りの一千里未満。九州沿岸のどこかからせいぜい70kmの範囲にしかならない。日本人がいくら「いや、日本の首都は大和だ」とがんばったところで、中国側は、朝鮮半島から対馬、壱岐を経由して九州に着いたあたりが邪馬台国と理解してきたに違いないのである。

ちなみに、九州北部は弥生~古墳時代前期遺跡の宝庫といってもいいほど各地でまんべんなく発掘されており、考古学上の証拠とも矛盾しない。そして史書の上でも、三国志(魏志倭人伝)以外の他時代の正史である晋書や隋書でもこのことは裏付けられるのだが、それはまた別の機会にして、魏志倭人伝に戻る。それでは「水行」「陸行」は何を意味するのだろうか。



2.2.4 「里程」の記事と「所要時間」の記事の区別

さて、邪馬台国の北までは「其戸数道里可得略載」(その戸数や距離はおおよそ分かる)と言っており、その記載も一万二千里あまりで合計も内訳も違いがない。となると、まず考えられるのは記載のうちで「里」(距離)を述べている部分と、「水行」「陸行」など移動に要する時間を述べている部分は、根拠が違うのではないかということである。

最初に述べたように、「三国志」全体をとりまとめたのは陳寿だが、この人物は蜀出身で基本的に蜀の記事を書いたとされる。もちろん、三国志全体のヒーローは劉備玄徳はじめ諸葛孔明、関羽、張飛といった蜀の人物である。だから、どちらかというと日本列島の事情は詳しくないはずで、先行する史料(王沈の「魏書」、魚豢[ぎょかん]の「魏略」など)を参考に記述したものとみられる。

だから、「里程」の記事と「所要時間」の記事の区別ができなかった。もしかすると、そもそも原資料からしてこのように書かれていたのかもしれない。そして、何度も辺境の倭国まで行くことができないので、やむなく検証できないまま記載されることとなった。読者も、本筋には関係ないところなのであまり気にしなかったのではなかろうか。

そして、さきに述べた古田武彦氏の説では、この「水行」「陸行」は、帯方郡からの総所要時間のことを示しているとする。これもひとつの仮説であり一概に否定できないが、だとするとほぼ近くにあるように読める投馬国(水行二十日)と邪馬台国(水行十日陸行一月)が違いすぎないかという気がするし、そもそも邪馬台国への所要時間を示すのであれば、「自郡至女王国万二千余里」の後に記載する方がずっと分かりやすい。

では、何を示すのか。一つの仮説であるが、これは後から追加した伝聞であり、国の広さを示しているのではないか

実は、同様の記載が魏志倭人伝の中にはある。倭人伝は大きく分けて3つのパートに分かれており、第一部が邪馬台国の地勢、第二部が邪馬台国の風俗、第三部が邪馬台国をめぐる事件、であるが、この第二部と第三部の間に、「閑話休題」のような文脈で、以下の記事がある。

又有侏儒国其南、人長三四尺、去女王国四千余里。又有裸国黒歯国、復在其東南、船行一年可至。
また、その(女王国東端の)南、女王国から四千里彼方に侏儒国がある。そこでは住民の身長は三四尺(約1メートル)ほどしかない。また、さらに南東に船で一年行ったところに、裸国と黒歯国がある。

このあたり、荒唐無稽な記述としてあまり取り上げられることがないが、「侏儒国」はこびとの国であり、「裸国」は文字通り裸の国、「黒歯国」は歯が黒い人の住む国である。そして、侏儒国までは四千里と里程を示しているのだが、裸国・黒歯国は里程を示さず所要時間だけを示してある。この書き方は、「水行二十日」「水行十日陸行一月」とよく似ている。



2.2.5 水行・陸行は国の広さについての伝聞

邪馬台国に来た魏の使節団が、そこから1年かかるという裸国・黒歯国に実際に行ったとは考えられない。では、この記事の根拠は何だったのかというと、おそらくこういった会話だったと考えられる。

魏人「他にどんな国があるのか」
倭人「南に裸国と黒歯国がある」
魏人「そこまで、どのくらいの距離があるのか」
倭人「舟で1年かかる」

後の時代の正史である隋書に、こういう記事がある。

夷人不知里数、但計以日。
夷人(この場合倭人)は里で数えることを知らず、日で数えることしかできない。

つまり、倭人だけしか行ったことがない場所の距離は、「何里」という表現ができないので、何日(あるいは何月、何年)ということしか書けない。だから、「水行(海行)」「陸行」というのは、本当なら何里と書きたいのだけれど、伝聞しかできないのでやむなくそう表現するしかなかったと考えられる。

それでは、何の距離なのか。裸国・黒歯国の場合は「そこまで到達するのでの距離」であることは明らかである。投馬国や邪馬台国もそうなのかというと、そこまでの各国ではそういう書き方をしていない。例えば「東南陸行五百里、到伊都国」のように、どれだけ行くとどこそこに着くという書き方をしている。だから距離ならば、「南水行二十日、至投馬国」と書いてある方が文脈的に自然であるのに、そうしていない。

その点、伊都国以降の奴国・不弥国もそういう書き方をしているのが余計あいまいさを増している。個人的にはそれらの距離記載も「もともと原資料になかったものを、他の出典により書き足したもの」という共通点があると考えているが、投馬国や邪馬台国の「水行」「陸行」が距離だとすると、「邪馬台国以北の距離は分かる」という記載と矛盾する。だから私は、この記載は「国の広さを示すもの」ではないかと考える。

つまり、韓ならば「方四千里」、対馬国・一大国ならば「方四百里」「方三百里」とその広さが記載されているが、九州という島について全く広さに類する記載がない。おそらく、魏の使者は九州を一周できなかったのではないか。だから、現地人にそれを聞こうとした。しかし、現地人は「不知里数(里で数えることができない)」、だから、「この国は、歩いて一月かかる」「舟で回ると十日かかる」と言ったのではないか。

このことについては、次の章で倭国の人口を検討する際に再度検討するが、投馬国と邪馬台国は東夷の国々の中ではかなり規模が大きく、国土の広さを示さないと記事として不完全であるという見方もできる。もちろん、これも一つの仮説であるが、そう考えることによって「魏志倭人伝は間違い」という前提を置かなくても、一連の記事が理解できるのである。

ちなみに、三国時代の後、晋の中国統一は短期間で終了し、その後の統一政権は7世紀の隋・唐を待たなくてはならない。その間、倭国に使節を派遣するほどの国力のある統一政権は現れず、それらの正史の中には「水行」「陸行」を邪馬台国までの距離と理解しているものもある。しかし、倭についての最後の記載となる「隋書」並びに「旧唐書(くとうじょ)」では、邪馬台国まで一万二千里の記載の方を生かしていることからみても、「水行」「陸行」は別の根拠に基づく数字とみるのが妥当である。



2.2.6 末盧国から邪馬台国は九州北部

さて、これまで書いてきたことをまとめると、まず大前提として、

魏志倭人伝の記述は、当時の中国の文化水準と、その後の時代において大きな訂正なく受け継がれてきたことから考えて、根本的な間違いはない。・・・①

そして、①から、次のことが導かれる。

帯方郡から一万二千里と記述してあることから、邪馬台国は九州北部にあり、海岸から千里(約70km)以内にあるとみられる。・・・②

ここまでが前提となる。さて、この前提をもとに倭人伝を解釈すると、以下が推測されるのである。

末盧国:「朝鮮半島→対馬」「対馬→壱岐」「壱岐→末盧国」の距離がほとんど同じことからみて、東松浦半島ではなく北松浦半島、平戸あたりである可能性が大きい。

伊都国:平戸から南東に35~40km進むと、伊万里になる。(多数説では、糸島半島を想定するため、南東は東の誤りとしている)ここが帯方郡の使者が常駐したところとみて、何ら不自然ではない。

奴国、不弥国、投馬国、邪馬台国:伊都国から東ないし南に進み、それほど遠くない(百里とかその程度の)場所となると、佐世保・有田から武雄・佐賀にかけての一帯となる。この地域は吉野ヶ里をはじめとして弥生時代の大規模集落が数多く発掘されている黄金地帯で、考古学上の証拠とも一致する。

水行二十日:投馬国が、佐世保周辺に拠点を置き、五島列島から長崎・天草あたりまでを支配していたとすれば、「私の国の広さは、一回りすると舟で二十日かかる」と言ったのではないか。

水行十日陸行一月:邪馬台国が、佐賀周辺に拠点を置き、有明海一帯と島原、九州を横断して別府・大分あたりまで支配していたとすれば、、「私の国の広さは、一回りすると舟で十日、歩いてひと月かかる」と言ったのではないか。

これは一つの仮説であるが、このように理解するならば①と矛盾しない。つまり、魏志倭人伝の距離や方角が全然違うという前提をおかなくても読める。そして、これは倭人伝中の他の記載とも矛盾しないのである。このことは、項を改めて述べていくこととしたい。

[Jan 10, 2008]

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