縄文クッキー
縄文時代の保存食。クリやイモを砕いて固めたもの。邪馬台国でも漁による獲物がない時には、こうした保存食を食べたであろう。
出典:IPA「教育用画像素材集

2.5 倭人は何を食べていたか

2.5.1 冬でも野菜が穫れた邪馬台国

学校で習った歴史では、古くは縄文時代から稲作の遺跡は遺されており、弥生時代には大陸・朝鮮半島から伝わった先進文化により大規模な稲作農業が全国的に展開した、とされており、われわれの頭の中にはなんとなくそういう思い込みがある。

しかし、基本的にコメというものは調理しなければ食べられない。コメのでんぷん質はそのままでは消化・吸収がしにくく、水に入れて加熱することによりアルファ化してはじめて消化・吸収できるようになる。その意味で、手間のかかる食料なのである。

だから、稲作は「これはいいものだ」ということですぐに取り入れられ普及したというわけではない。そして、稲作というのは当時の最先端のベンチャーであり、その事業化に成功したことにより古代日本が経済成長を果たしたと考えているのだが、その前段としてまず、古代の日本人は何を食べていたのかについて考察してみたい。

前の節で書いたように、魏志倭人伝には倭国について、「倭は温暖であり、冬でも生菜を食べることができる(倭地温暖、冬夏食生菜)」と書かれている。さて、ここで書かれている生菜とは何なのであろうか。

現代において常備する野菜としてポピュラーであるのは、にんじん、じゃがいも、タマネギではないかと思われるが(カレーやシチュー、肉じゃがが作れる)、にんじん、じゃがいもが日本に伝わったのは16世紀、タマネギに至っては明治時代である。

キャベツやほうれん草も江戸時代以降、トマトは明治時代。かぼちゃはもともと「カンボジア(の瓜)」という意味で、フランシスコ・ザビエルの頃ポルトガル人が持ち込んだ。ナスはかなり古いがそれでも平安時代で、今なじみの野菜のほとんどは縄文~弥生時代には日本には存在しない。

その当時の野菜には、セリ、ネギ、カブ(すずな)、大根(すずしろ)、菜の花などのアブラナ科の葉物、ウリ、ワラビやゼンマイなどの山菜、きのこ・タケノコなどがあったと考えられる。かぶ、大根はもちろん葉も食用になるので、こうした野菜を冬の間に食べていたのかもしれない。

しかし、野菜だけではカロリー源、あるいはたんぱく源として十分でない。つまり、主たる食料はこれ以外にあったはずである。



2.5.2 狩猟採集社会と保存食としてのクリ類

日本列島に南方から縄文人が移住してきたのは約1万年前とされている。この頃、地球規模では最後の氷河期が終わり、ヒトが生活することのできる地域が北に拡大した。最初に日本列島に来た人々も、この頃黒潮に乗って北上してきたものと考えられる。

さて、その時代ヒトの食料の大部分は、狩猟・採集によって得られていた。社会学の言葉では「狩猟採集社会」といわれる。具体的には、狩りで得た動物、漁で手に入れた魚や貝類、木の実、果物、イモ・球根など採集で得た食物をとることにより、ヒトは生きてきたのである。

その時代の日本列島に移住してきた人々が、後に「縄文人」と呼ばれることになる。縄文人はもともと海の近くに住んでいた人々であり、その食べ物の多くは海から得られたものであった。海岸で採ることのできる貝や海草、カニやエビ、小魚は重要でありかつ安定的に得られる食料であったし、ときには釣ったりモリで突いたりして比較的大きな魚も獲ることができただろう。

ちょうど、よゐこの濱口が「黄金伝説」でやっているような生活である。だから、倭人伝にあるように、倭人は皆、海中の危険な動物を避けるためのまじないとしていれずみをしていたのである。とはいえ、黄金伝説でもときどきみられるように、いくらがんばっても何も獲れない時もあるし、天気が悪かったり風が強かったりすればそもそも漁に出ることができない。そういう時にどうやって日々を暮らしていたのだろう。

彼らがもともと住んでいた熱帯であれば、陸の上で得られるさまざまの食料、例えば果物やヤシなどの木の実を食べることができるし、小動物を狩ることも可能であったろう。しかし、生活圏が北に拡大することによって、彼らには四季という新たな制約条件が加わった。温帯の地域では冬に果物や木の実を得ることは難しく、また動物の姿も少なくなるのである。

だから彼らは、食料の貯蔵をしなければならなかった。食料の不足する冬を生き延びるために、秋の間に「食べる量以上に食料を収穫し保存する」ことが必要だったのである。そして、日本列島にはそれに適した食物があった。栗やクヌギ、シイ、トチといった木々は古い時代から日本には自生していたので、栗やドングリを収穫し、貯蔵したのであった。

縄文時代の遺跡からはしばしば、「縄文クッキー」が出土する。これは、栗、ドングリ、クルミやアワなどを粉末にしたものを動物の脂やヤマイモで固め、クッキーのようにしたもので、保存食として用いられたものとみられている。



2.5.3 縄文時代の調理と土器

さて、ここで人々が食料をどのように調理していたかを考えてみたい。

主なカロリー源でありたんぱく源である魚や肉は、新鮮なものであれば生でそのまま、日が経っていれば焼いて食べたであろう。特に魚の場合は、熱を加えてしまうとビタミン類が失われてしまうので、体調を整える上でも生で食べることが望ましい。

一方で、保存したりあるいは他の物と交換する場合には、いまのように冷蔵庫や保冷車がないので、魚なら干物に、肉なら干し肉にしたものと考えられる。海の水と日差しがあれば干物や干し肉を作ることができるし、火の上に吊るしておけば燻製にすることもできる。いまでもそうやって簡単にベーコンを作ることができるが、塩だけで作ってもかなりおいしい。

一方、その頃にはまだ金属器がないので、水を入れておくことのできる容器は、木を削って作るか、貝殻の大きなものを使うか、あるいは土器しかない。土器については、縄文式だけでなく弥生式土器、さらに後の時代の土師器(はじき)に至るまで、粘土を固めて比較的低い温度で焼かれており、表面処理もほとんどされていないのである。

現代の土鍋も土器の一種であるが、土鍋がなぜ金属鍋と同じように調理に使えるのかというと、窯(かま)に入れて高温で焼いていることにより耐久性があることと、釉(うわぐすり)を塗っていることにより、土の成分が溶け出してこないからである。そうした土器が日本で作られたのは、古墳時代に朝鮮半島から須恵器(すえき)が導入されてからである。

逆に言うと、縄文式土器を調理に使おうとすると、直火に当てれば割れやすいし、煮ているうちに土の成分が溶け出してきてしまうということである。もちろん、当時の人々は今ほど神経質ではない。現代でも、インドの人々はガンジス川の泥水(われわれからみると)で顔を洗ったり口をゆすいだりしているそうであり、土器に汲み置きした水を飲んだりするくらいのことは平気だったに違いない。

しかし、例えばいまのようなやり方でご飯を炊く場合、土が溶け出してしまえばご飯は土の味になってしまうので、あまりおいしそうでない。そして実際も、コメは蒸して食べていたらしい。例えば火のそばに水を入れた土器を置き、竹や草で編んだザルにコメを入れて蒸し、柔らかくなったところを食べたらしい。

つまり、金属器が普及する以前には、生、焼く、蒸すの3つの調理はできても、煮ることは難しかったのではないだろうか。もちろん、「茹でる」ことにより食べやすくなったり、保存がしやすくなるという効果があるので(例えば、卵・固い肉・ドングリの渋抜きなど)、そういう下ごしらえ的な調理はあったと思われるが、現代のスープやシチューを縄文式土器で作ることは難しかったのである。

こうした状況の中で、稲作がどのように広まり、そして日本の基幹産業となったのかというのが次の問題である。



2.5.4 稲作専業になることのリスク

江戸時代後半までアイヌの人々は、男たちは狩りや漁に出て獲物を狙い、女たちは住み家の近くにいて木の実や球根の採集をするかたわら、穀物を栽培することもあった。おそらく縄文時代の人々も同じように、住居の周囲で稲作を行っていたと考えられる。

狩猟を止めて稲作に集中することも当然可能性としてはありうるが、そのためにはかなりのリスクを覚悟しなければならない。最初に指摘できるリスクは、収穫が基本的に年一回しかないことである。

例えば魚を獲る場合には、もちろん収穫量に多い少ないはあるものの、収穫はほぼ毎日ある。だからたまたま天候等の要因で収穫が得られない日があったとしても、次の日漁に出るまで食べるのをがまんすればいい。しかし、年に一回しか収穫がない場合、もし収穫がゼロだったとしたら次の年まで我慢することはできない。

第二に、現代と違い病虫害によって収穫量が左右されることである。村上春樹の「羊をめぐる冒険」の中に明治時代の開拓農民のエピソードがあるが、一年目はいなごのため、二年目は天候不順のため収穫が得られなかった。古代には農薬や品種改良はなく、そうしたリスクは現代とは比較にならないくらい大きかったはずである。

第三に、古代においては現代のように治安が保たれているということはなく、大きな収穫があるということは常に他者からの略奪の可能性があることを意味する。昨今でも、秋になると収穫後の倉庫を狙ったコメ泥棒が出るくらいであり、古代においてその脅威は現代の比ではないだろう。

加えて、前節でみたように縄文式土器はコメの調理に必ずしも向いているとはいえない。果実やクリ類、イモ類と違って、コメは熱を加えて調理しアルファ化しないとカロリー源になりにくいのである。

こうしたリスクを軽減化し、漁業に替わって稲作が日本の基幹産業となるためには、おそらく一つの条件が必要だったと考えられる。その条件とは、金属器(青銅器・鉄器)の日本列島への流入である。



2.5.5 金属器の流入と稲作の拡大

世界的にみると青銅器の発明は鉄器よりも早いが、いずれも紀元前10世紀よりも前のこととされる。中国本土にも3000年以上前からあったものだから日本列島にも少しは渡来していたと思われるが、量的に拡大したのは以前述べた「倭国大乱」、朝鮮半島からの大規模な民族流入が起こった2世紀であると考えられる。

金属器の流入がなぜ稲作において重要なのかというと、まず第一に生産性が飛躍的に増大するからである。水田を作るには、まず水路を引き、畦(あぜ)を作り、中の土を耕すという工程があるが、いずれの場合も木製品と金属製品では作業効率に大きな差がある。また、収穫の際にも、木とか貝で刈り取るのと、金属器で刈り取るのとでは能率が違う。ということは、金属器があれば、より広い水田を開き、より多くの収穫が可能となる。

また、収奪を防ぐためにも、金属器は有効である。例えば、備蓄してあるコメを奪おうとする側と防ごうとする側を考えた場合、実は奪おうとする側の武器は金属器でなくてもいい。弓矢にせよ槍にせよ、木や竹を使ってある程度殺傷力のある武器は作れるからである。

一方で、防ぐ側に金属器があるのとないのとでは、守備力にかなりの差が出てくる。コメを作る側というのはいうまでもなく防ぐ側にあたり、金属製の武器、盾や防具があることは収穫を守る上でかなり有効であろう。

金属器の流入によって、稲作専業になることのメリットが拡大してリスクが小さくなり、それまで漁業を中心とした狩猟経済で生活してきた人々が、稲作という専門分野に特化した。そして、天候が良かったり病虫害が少なかったりという運に助けられて、稲作ベンチャーは自分達が食べる量以上の収穫、つまり余剰生産力を得ることができたのではないだろうか。この連載のはじめに述べたように、この余剰生産力が、領土拡大への最初の契機となる。

そして、ここで金属器のもう一つの利点が生かされる。コメは、炊いたりお粥にして食べるのが最も適しているのだが、土器ではそれが難しかったということである。金属器である鍋・釜の出現により、日本人はコメを炊いて食べられるようになった(そして後世まで、鍋釜というのは重要な家財道具である)。これらの要因が合わさって、金属器の流入は稲作を後押ししたと考えられるのである。



[April 11, 2008]

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