チンギス・ハーン(左)とフビライ・ハーン(右)
チンギス・ハーン像は本人をモデルにしたのではなく、元の時代に孫のフビライをモデルに描かれたものとされる。だからフビライにそっくりである。

1.2 モンゴル・ウルス

1.2.1 世界史上最大領土を獲得したモンゴル・ウルス

実効支配というと思い浮かぶのは、1980年代のカンボジアにおいてクメール・ルージュ(ポル・ポト派)の実効支配が続いていたとか、つい先頃までアフガニスタンにおいてタリバンの実効支配が続いていたとか、非合法の正統でない政権による支配というイメージである。しかし実効支配している側からすると、むしろ自分達に正統性があると思っている場合が多いことは容易に想像できる。

現代だから、国際機関としての国連の判断があり、民主主義的な先進諸国が認めた政権かどうかという判断基準があるが、古代においてそんなものはない。あえて近いものを探せば、地上で唯一の権威と自らを定義している中国(中華王朝)が認めたものかどうかという基準はあるのだが、テレビも新聞もない、基本的に伝言ゲームでしか情報が伝達できない昔のことであり、そうした共通認識があったとは考えにくい。その意味では、実際に力でその地域を支配している者が正統な支配者という時代が長く続いたはずである。

その意味で、クマや狼、鮎や鮭と同じように、人間も「ここからここまでは俺のなわばり」と主張してそれを力づくで確保していくというのがスタートであったことは確かだし、それが最終的に「国」(つまり日本)としてまとまっていったであろうことは流れとして理解できるのだが、その中間点というか境目として、何をもって「統一された政権」と定義されるのであろうか。そのことを考えるうえで、世界史上最大の領土を獲得したモンゴルのケースを考えてみたい。

モンゴル(モンゴル・ウルス)は、13世紀の初頭、チンギス・ハーンがモンゴル民族を統一し大ハーンとなって以降、積極的な領土拡大を図った。日本では、「源義経=ジンギスカン説」がまことしやかに語られた時代があったが、頼朝の鎌倉幕府が1192年、チンギス・ハーンのモンゴル統一が1206年とされるから、少なくとも時代としては合っている。義経が何語を話してモンゴルで意思疎通したのかと考えると謎であるが。

この時代のモンゴルを指して「モンゴル帝国」と呼ぶことも多いが、「帝国」という言葉の本来の意味は「皇帝が治める国」だから、モンゴルにこの名前を使うことは正確ではない。つまり、「皇帝」という言葉には中国の場合もローマはじめヨーロッパの場合も「全世界の支配者」という政治的宗教的定義が含まれているのに対し、大ハーンはあくまで部族共同体の主であってそこまでの意味はないからである。

したがって、ここでは彼らが名乗っていた「モンゴル・ウルス」と呼ぶことにしたい。ちなみに、現在のモンゴルも、かつて「モンゴル人民共和国」から「モンゴル・ウルス」に改めている。通常日本語訳は、「モンゴル国」となっている。

モンゴルが諸外国を征服できた戦力的な理由は、攻撃力が極めて高かったということである。1人の兵士が4~5頭以上の馬をかわるがわる使うという機動力、弓矢や槍、投石機や火器(鉄砲はまだないが、爆弾のような火器はあった)といった武器により、彼らは敵の守備網を易々と突破し、まず武力で占領下においた。

次のステップとして、中核部隊が占領下において財(宝物)や労働力(市民を奴隷や兵士として徴用するなど)の略奪を行う。チンギス・ハーンは最初の段階において機動力や攻撃力が減少するのを防ぐため、攻撃部隊には略奪を許さず、中核部隊がそれを行い、奪った獲物は公平に分配するシステムをとったといわれている。

そして最終ステップとして、徴税人を置いて、それ以降の収穫や労働力を搾取しうるシステムを作りあげる。当時モンゴルの占領下におかれた東ヨーロッパ諸国ではこの時代のことを「タタールのくびき」と呼んだ。タタールというのはモンゴル人のこと(いわば蔑称)で、くびきというのは牛や馬が荷車を引く時、首に結わえ付けられる横棒のことである。モンゴル野郎のために、家畜のように働かされる、というニュアンスの言葉である。

しかし、モンゴル国内ならばまだしも、このような領土拡張が現在の中国、ロシア、インド、中央アジア、イラン、イラクにまたがる極めて広範囲においてなぜ可能だったのだろうか。ここで注目すべきなのは、モンゴルだからこそ可能であった高速運輸通信網と、職住接近による行軍である。

1.2.2 モンゴルの領土拡大を支えた高速通信輸送網と職住接近

モンゴルによる世界制覇は、実はチンギス・ハーンの時代には中央アジアまでで、最大領土を獲得したのはチンギスの息子オゴディが大ハーンとなった1230~40年代のことである。この時期、本拠をカラコルムに置いたモンゴル・ウルスは、ここから征服した各地に向けて道路網を整備した。とはいってもこのあたりは基本的に草原地帯だから道路の建設にそれほど手間がかかったとは思えないが、中継地(ジャムチ)に早馬を常駐させ、大ハーンの命によりこの早馬を乗り継いで領土各地との連絡・運送ができるようにしたのである。

前回述べたように領土の獲得には、①武力による制圧、②財や労働力の略奪、③占領後の収穫および労働力を搾取するシステムの確立、という3段階が必要であるが、領土が広がれば広がるほど、それらの戦果が本拠地に集約しにくくなる。つまり、現地司令官が横取りして自分のものにしてしまう危険性が大きくなる。こうなると、それは統一された領土とは認められない(現実にその後モンゴルは、元と4つのハン国に分裂した)。だから、首都と占領地を結ぶ高速運輸通信網は、現地司令官をコントロールするためにも、なくてはならないものなのである。

この道路網において大ハーンの命により早馬を使用する権利を表したのが「パイザ」とよばれる許可証(金属板)である。だからこの「パイザ」は、単なる許可証というより大ハーンの代理としての権限を示すものということができ、いってみれば、水戸黄門の「この印籠が目に入らぬか」に近いものといえる。ちなみに、マカオのサンズ・カジノのVIPルームは「パイザ・クラブ」というのだが、その出典はもちろんこの「パイザ」である。

もう一つ、モンゴルが広大な領土を獲得できた背景として、職住接近がある。というのは、モンゴルからヨーロッパに数万人もの兵力を移動させなければならないが、その間の食料の調達や、兵士の休息等はどうするのか。占領地から略奪すればいいと安易に考えてはならない。そもそもこのあたりにはあまり人は住んでいないのである(ちなみに、補給・兵站を甘くみた第二次世界大戦の日本は、補給路を絶たれたのはご存知のとおり)。

実はこのあたりにモンゴルの特異性があって、そもそも牧畜民族だから定住していないのである。だから、遠征軍の最後尾には、羊やら馬やらを大量に引き連れ普段の生活と同様に可動式住居パオを持って、兵士の家族たちが随行していた。いってみれば、放牧の一環として征服をしているということである。そして侵略活動が終わると、兵士は自分のパオに戻っていつもどおりの生活を送ることができた。

だから結局のところモンゴルが侵略できなかったのは、海とか、ジャングルとか、山とか、砂漠とか、自然が放牧集団の前進を阻んだところなのである(ロシアにも川があったが冬には凍ったので前進できた)。さて、そうやってモンゴルが領土拡張を続けるうちに時は流れ、現地司令官はチンギスの孫世代となった。これまで「親父だから」「兄貴だから」従ってきた彼らも、いとこだのまたいとこにいつまでも義理堅くしてはいられなかった。次回は、モンゴルがどのように分裂、つまり統一政権でなくなったかをみていきたい。

1.2.3 モンゴル衰退の要因となった大ハーン相続問題

鎌倉時代に日本侵略(元寇)を図ったフビライはチンギスの孫にあたり、父トゥルイ(チンギスの末子)の時代からこの一族は中国方面の司令官であった。ちなみに、チンギスの子供の中では、長兄にあたるジュチの一族が最も戦略的才能があったようで欧州方面の司令官、弟のチャガタイの一族が中央アジアの司令官、そしてさらにその弟であるオゴディがモンゴル・ウルスとしての大ハーン、すなわち家長の地位にあったのである。

どうもこれには、チンギスの子供達(兄弟)の仲があまりよくなかったということが背景にあるらしい。チンギス・ハーンが言ったとされる「敵を殺して、その妻妾を自分の後宮(ハレム)に入れるのが、人生最大の楽しみだ」という言葉や、最近の研究で、世界中に最も遺伝子を残している歴史上の人物がチンギス・ハーンであるということから裏付けられるように、この一族には多くの妻妾を持つ例が多く、その結果として子孫が非常に多い。そしてモンゴルでは「末子相続制」が支配的であったとされる。子供が多くて末っ子が跡継ぎだとどういうことになるか。なかなか正統な後継者が決まらないということである。

それでもチンギスが生きていればなんといっても親父だし、後継者となったオゴディは温厚な人柄で、兄弟それぞれから一目おかれていた。しかしオゴディの死後チンギスの孫世代になると、大ハーンの地位を巡り同族の間で深刻な後継者争いとなった。才能ある司令官であればあるほど、ひとからコントロールされることより自分がコントロールしたいものであろう。そしてフビライが南宋を滅ぼして元を建国し日本に進軍した頃には、すでに大ハーンがモンゴル・ウルス全体を掌握するという体制ではなくなっていたのである。

そして、フビライの子孫が元(中国)を、ロシア・東ヨーロッパはジュチの子孫がキプチャク・ハン国を、中央アジアはチャガタイの子孫がチャガタイ・ハン国を、モンゴル西部はオゴディの子孫がオゴタイ・ハン国を、イラン・イラク方面はフビライの弟フラグがイル・ハン国を建てて、それぞれかつてのモンゴル・ウルスの領土を分割統治した。それぞれの領土から得た収穫(=金)は、儀礼的に各国間でやりとりされたようだが、これまで大ハーンが有していた広大な領土と強大な権力は、縮小から衰退の方向に向かうこととなった。

もともと末子相続ということ自体、一人前になった兄から順番に羊や馬などの家畜を分けてもらって親から独立し、一番成長の遅い末っ子が残った家畜を受け継ぐ代わりに老いた親の面倒をみるという牧畜集団に独特のものである。しかし、定住して領土を守っていかなければならないとすれば、早く後継者を決めて経験を積ませなければならない。

にもかかわらず、どうもモンゴルは大領土を持つようになってからも非定住生活にこだわったようであり、長期安定政権には適していなかった。ちなみに、現在の北京とモスクワはいずれもモンゴルがその基礎を築いた都市である。北京=当時の大都の一角には、パオを設置するための草原がわざわざ用意されていたという。

このように、世界史上最大領土を獲得したモンゴルは、最大に拡張したその時点からすでに衰退を始め、チンギス・ハーンが大ハーンとなってからおよそ100年後の1301年にはオゴタイ・ハン国が滅亡、さらに約60年後の1468年には元(中華)を放棄してモンゴルへと撤退した。フビライからわずか5世代、チンギス・ハーンから数えても7世代の栄華に過ぎなかったのである。帝政ローマ(約400年)、唐(約300年)、日本の徳川幕府(約260年)と比較しても、はるかに短い。(とはいっても、キプチャク・ハン国の最後の分家であるクリミア・ハン国は、なんと1917年のロシア革命まで存続した)

こうしてモンゴルの興亡を振り返って再認識できることは、広大な領土の統一政権を維持するためには道路網、通信網の確保が必要であり、それを維持することは困難であること、そして優秀な司令官であればあるほど中央のコントロールから独立する傾向にあること、また血縁による帰属意識が強いのはせいぜい2世代か3世代であり、それ以上離れると分裂する力が強く働くことである。さて、いよいよ日本古代に戻って常識で考えてみたい。4世紀や5世紀に、日本全国を統一する政権がはたして可能だったのかどうか。

[Jul 13,2007]

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