中国本土と日本の位置関係
漢書地理志の「呉地」に書かれている東テイ国。「会稽海外」「二十余国」から考えると台湾~琉球の島嶼地域が想定される。
8.2 漢書地理志(呉地条)
8.2.1 漢書地理志に出てくる倭人類似の記事
少し前に漢書地理志について書いた。漢(前漢)は紀元前1~2世紀における中国の王朝、漢書は漢の成立から滅亡までを記録した歴史書であり、後漢時代に入って紀元1世紀に成立した。その漢書の中で、中国本土及び周辺地域の地理についてまとめた「地理志」に倭人について書かれた記事があり、「倭」と明示された中国史書の記載では最古のものとされている。
そして、倭人の記事が載っているのは地理志の中で「燕(えん)地条」と呼ばれる部分である。燕(えん)は春秋戦国時代に中国北東部にあった国であり、秦によって中国全土が統一されて後も、地方を示す名称として用いられた。この「燕地条」の中に、燕、楽浪郡、朝鮮の記事に続いて、倭人の記事が書かれている。ちなみに、以下が「楽浪海中有倭人」の記事である。
楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時来献見云
(楽浪海の中に倭人がいる。分かれて百余りの国があり、貢物を持って定期的に来朝したという)
さて、この倭人の記事とよく似た文が別の地理志の別の場所に書かれている。「呉地条」という場所である。呉は燕と同様に春秋戦国時代の国の名前で、「呉越同舟」の語源となった呉王夫差が有名である。もっとも次の記事は、呉王とは直接の関係はない。
会稽海外有東テイ<魚是>人 分為二十余国 以歳時来献見云(テイ<魚是>=魚編に是)
会稽海の外に東テイ人がいる。分かれて二十余りの国があり、貢物を持って定期的に来朝したという。
楽浪(郡)海中が会稽(郡)海外、百が二十となっている他は全く同一文といってもよく、もしかすると漢書に採られる前に出典となる文書があって、そこから移記された可能性もある。いずれにしても、偶然の一致としてはできすぎているように感じられる。
この東テイ人の記事は以前から知られていて、私は何十年か前に古田武彦氏の著書で読んだことがある。古田氏は「東テイ国」を倭よりさらに東と想定し、孔子が仁義の道が行われないことを悲しんで東の蛮国に船出しようという説話(「燕地条」等に書かれている)は、東テイ国を想定していると推論していた。また、遺跡からは出土するものの文献に裏付けのない銅鐸との関連があるのではないかとも書かれていた。
この流れは現代にもつながっていて、東テイ国イコール倭国ではない日本の地方政権であるという主張は、WEBを探すといろいろ出てくる。ただ、類推や無理な関連付けをしないで考察すると、東テイ国の根拠となる記事は漢書地理志呉地条のこの記事だけなのである。ここに書かれているのは孔子でもなければ倭地でもない。会稽海外と二十余国というだけが手がかりなのである。
だとすれば、まずこの記載から考えられるのは何かというところから出発しなければならないだろう。
8.2.2 「楽浪」と「会稽」の違いを考察する
楽浪郡は現在の北朝鮮・ピョンヤン付近、会稽郡は中華人民共和国・紹興付近である。いまは同じ中国とはいえ、その間には1000km以上の距離がある。そして、現在なら会稽の方がより中央に近いと感じるけれども(上海からすぐである)、漢帝国の中心地はどちらかというと北にあったので、当時はむしろ楽浪の方が中華の中心地に近いという感覚であったと思われる。
中華王朝は歴代、貿易には関心が薄い(商業を軽視する儒教の影響)。「朝貢貿易」というのは朝貢側にとっての実態が貿易というだけで、王朝側にとっては貢物を持参する後進国に中華の豊富な産物を下賜するという、ある意味で開発援助的な要素が強かった。もちろんその背景には、軍事的な脅威を除くという意図が含まれていた。
貿易に関心が薄いものだから、港湾を整備しようというインセンティブも働かない。結果として、沿岸部の開発は遅れることになる。中国における王朝の興亡史は紀元前から始まっているが、主な関心は耕作地と収穫物の争奪戦であって、海に向かって領土を広げるという発想はあまりなかった。
現代では、台湾には中華人民共和国に先立つ王朝である中華民国があるが、この台湾ですら、中国史書に登場するのは、三国志のうち呉志に「夷州」と記載されているのが初出とされる。「夷州」の「夷」はいうまでもなく「東夷」の「夷」であり、野蛮人の住む未開地という認識であったことは疑いようがない。
同様に、香港・マカオ・広州は現代では非常に経済の発展した地域であるが、中国歴代の王朝は、この地域にはあまり関心がなかった。漢書地理志でも、北の記載はかなり多いのに対し、南方の記載はあまりない。亜熱帯地域は湿地やジャングルが多く害虫も多いので耕作地にするのは難しいし、当時の衛生環境からすると人間が住むのにそれほど適してはいなかったのだろう。
だから、大航海時代になってヨーロッパから遠路やってきたスペイン、ポルトガル等に対し、南岸地域の港湾整備や商人の居留を認めたのである。教科書的感覚では、先進国であるヨーロッパ各国が軍事力を背景として進出したような印象があるが、大航海時代の直前まで世界最大の軍事国は中国(元)であり、逆に中国がヨーロッパを侵略したのである。
話は戻って漢の時代、会稽のあたりは中華と呼ばれる先進地域の南限に近く、それより先に領土を拡張しようというインセンティブはほとんど働かなかったと考えられる。東は海であり、南は亜熱帯の後進地域である。そして、北には匈奴という軍事的脅威があるのに対し、東や南から攻めてくる者もいない。
だから、楽浪方面から来た倭人にはそれなりの関心を持って接したのに、会稽方面から来た東テイ人にはあまり関心が払われなかったのではないだろうか。結果として、倭奴国のように金印を授けられることもなかったし、邪馬台国のように王朝側からの使者を迎えることもなく、その後の史書にも登場することはなかったのである。
おそらく、「献見」も倭王のように何度も使者を送ってくることはなく、貢物も特に注目すべきものではなかったと考えられる。さて、その「東テイ人」という表現だが、そもそもどうしてその名前がつけられたのだろうか。
8.2.3 東テイ人の意味
東テイ人の「テイ」(魚へんに是)の意味については、よく分からない。漢字の意味としては「大なまず」ということになるらしいが、なぜなまずを出す必要があるのかが分からない。古田武彦氏など何人かは、中国史書で馬の産地である「高句麗」の「麗」に馬へんを付けている例から、魚の産地であることを偏で示し、意味としては「是」であろうという主張をしている。
(ワープロでないから、結構自由に漢字を作れたのだろう。)
ちなみに、倭に人偏がついているのは、同様に考えると「生口」(=通常、奴隷とされている)を献上した国であることから名付けられたとも考えられる。だとすると本来の国名は「委」であり、志賀島の金印に彫られている字も、「委(倭)の奴の国」ではなく「委奴の国」と読み下すべきかもしれない。
委奴は普通に読めば「いと」であり、魏志倭人伝の「伊都国」と同じ読みとなる。伊都国は一支国(壱岐)、末盧国(松浦半島)に続いて出てくるから糸島半島と想定されており、朝鮮半島から海峡をはさんだ九州北部という大きな範囲におさまる。つまり委奴国=伊都国と考えても大きな矛盾は起こらないのである。(魏志倭人伝の逐語解説はこちら)
さて、「是」についてだが、漢和辞典によると「日」と「正」の合わさったいわゆる会意文字とされる。
したがって一番目の意味としては「正しいこと」で、是認とか是正などの熟語がある。二番目は「これ、この」といった指示代名詞的な意味、そして三番目に、「はし」とか「さかい」という意味がある。熟語ではないけれども、例えば、堤防の「堤」がこの意味から派生した会意文字となる。
会稽海の遠い彼方(外)に、魚を特産物とする東の端の人々がいた。彼らを(中華との)境を越えて東に住む人という意味で「東テイ人」と呼んだとすれば、ごく自然である。それでは、その人々、会稽郡(現在の上海、寧波、杭州周辺)に特産物である魚を持って交易に来る(前回述べたように、王朝側の視点からみると貢物を持って挨拶[=献見]に来る)人々は、どこに住んでいたのだろうか。
方角的に会稽の真東は九州南岸となるが、その間には東シナ海がありその間約800km、どこにも寄港しないで無補給で往復するのは困難である。ましてこの海域は夏は台風、冬は高波が発生する通行困難な海域である。(台風はもちろんだが、西高東低・冬型の気圧配置になると、良い北風が吹く。先日与論島に行ったところ、連日10mを超える強風で大変だった。)
前漢から約800年後の唐の時代においては、遣唐使が定期的に東シナ海を往復したが、その際にも難破や渡航中止の例が多い。鑑真が日本に来るのに何度も難破したほどである。また、東シナ海横断航路では目的地を目で確認することは困難だが、台湾から先島諸島、沖縄に至る航路では、天候に恵まれれば目的地をなんとか確認することができる。
荒天の際の避難や食料補給の観点から考えても、特に紀元前後の古代であれば、いったん南下して福建省から台湾、先島諸島、沖縄本島とたどるのが最も可能性のある東への航路と思われる。
ここで考えなくてはならないのは、楽浪海中の倭人は百余国あるのに対し、会稽海外の東テイ人は二十余国しかないということである。東テイ人の住む区域として、どの程度の範囲が想定されていたのだろうか。
8.2.4 台湾は中華王朝から「琉球」と呼ばれていた
私は、漢書に書かれている「二十余国」という国数からすると、東テイ国として想定される範囲は、面積(海域)としては広いかもしれないが、それほど多くの島数を含んでいるものではないと考えている。
以前考察したように、前漢の郡国制において「国」は諸侯が統治する地方行政組織で、人口数十万人、配下の県組織が数十にのぼる。紀元前の台湾から沖縄にかけて、100000x20で2百万人もの人口を養えたとは思えないから、二十余国は郡国制の「国」ではなく、倭人の「百余り」と同様に現地基準、おそらく大集落程度の規模のものであったと想定される。
さて、 東テイ人の「国」が倭と同様に大集落程度の意味で書かれているとすれば、二十余りといえばどの程度の範囲が想定されるだろうか。会稽郡からスタートして海を渡るとなると、まず大きな台湾島がある。台湾島の面積はほぼ九州と匹敵するから(約3.6万㎢、九州は約3.7万㎢)、集落の数はそれなりに多かっただろうし、周辺の離島を含めるとそれ以上になる。
なにしろ、漢書地理志の倭人の記載によれば、同じ面積の九州だけで確実に二十以上は「クニ」があったのである。九州と比べて台湾が開けるのが遅かったことを勘案しても、東テイ人二十余国のすべてが台湾であるという主張すら成り立つ余地がある。実際に台湾では、そういう見方もされているようだ。
ただ、ここで注意すべきは、ずっと後の隋(7世紀)から明(14~16世紀)の時代まで、台湾が中華王朝から「琉球(琉求)」と呼ばれていた事実である。明の次、清の時代になると欧米諸国の進出に対抗する意味もあって「台湾」の名称が確立するのだが(現代のわが国でも、領土の争いがあると無人島に名前をつけたりする)、それまで沖縄と同じ「琉球(琉求)」という名称だったということは、台湾と沖縄が明確に区別されていなかったということである。
台湾だけで多くの人口を有し、それぞれの地区から定期的に交易(朝貢)に現れていたのだとすれば、そういうことはありえない。両者が鉢合わせしたら「われわれは彼らとは違う」ということになっただろうし、そのことが中国側の記録に反映されたはずである。
つまり、東テイ人と呼ばれた人達は頻繁に交易に現れた訳でもなければ、規模もそれほど大きくはなかった。会稽郡の役人からすれば、東の境の向こうから来た海にすむ人達というくくりで一緒にできるレベルだったということである。だから、その人達は後に琉球と呼ばれることとなった台湾・沖縄から来た人達であり、そこに二十余りの大集落があったとするならば、それほど非現実的ではない。
そしてもう一つ、「東テイ人」という表現は漢書とそれを引用する文献のみでその後は使われなくなってしまい、時代が下って琉球(琉求)という地名が現れたということである。それに対して倭国は漢代から一貫して倭国であり、「日本」に名前が変わった経緯については旧唐書にちゃんと説明してある。
このことから推察されるのは、もともと「東テイ人」というのはそこに住んでいる人が自分達の住んでいる場所として言ったものではなく、あくまで中国側の認識として「東の境の向こう側の人=東テイ人」と呼んだのではないかということである。そして、彼らが自分達の住んでいる場所として言うようになったのが「琉球(琉求)」なのではないか。
つまり、東テイ人イコール琉球人であり、台湾・沖縄諸島を包括した地名として使われていたのではないかということである。さて、そう推論した場合、前後の事情と矛盾するのだろうか。
8.2.5 東テイ国二十余の想定範囲
前回の検討では、東テイ国とは後に琉球(琉求)と呼ばれることになる台湾・沖縄諸島のことを指しているのではないかという仮説を立てた。さて、そう考えた場合、前後の事情と相反するだろうか。
まず漢書地理志の記事だけ考えた場合、東テイ国の記載から類推できることは、①中国本土から東に位置していて、中華の範囲から外にいる。②会稽郡の周辺に、定期的に交易に現れている。③特産物は魚であるらしい。④現地基準で二十余りの国がある、ということである。
まず①については、世界地図をみると明らかなように、中国南岸から東にある島嶼は、台湾および沖縄諸島である。中華の範囲外ということについては、「会稽海外」という言葉が示しているが、中華である会稽郡から海を渡った先ということである。後に隋書において「琉球まで水上5日」という表現があるように、この点でも台湾・沖縄と考えて矛盾はない。
(ここは漢書の分析なので、隋書の記載には深入りしない。隋書の琉球伝については、また改めて検討したい。)
②および③についてはどうだろう。中国本土と海上の島々が交易するとして、島々から魚などの海産物を持ってきたというのは十分ありえることである。これも後の時代になるが、大和朝廷が租税(租庸調)の代わりに海産物を納めさせたという事例もある。島々から中国内陸部に不足している塩、貝、魚等を供給し、代わりに繊維製品(糸や織物)、陶器を求めたのではないか。
そして、④である。ここが大きなポイントとなる。台湾は面積が大きいし、八重山諸島、沖縄本島地域、奄美群島の3つの地域には今日、それぞれ十以上の有人島がある。もちろん今日の状況と紀元前を同一に考えることはできないが、二十余りという想定は十分可能である。
むしろ、二十余りという数は、台湾・琉球全体を含むとすると少なすぎる感がある。また、台湾から与那国島、西表島、石垣島あたりまではなんとか視認できるものの、石垣島から沖縄本島までは百km以上の距離がある。紀元前の交通(海上および陸上交通)事情を考えると、定期的に収穫物を持って交易に訪れるにしては遠すぎるように思う。
そうした点から考えると、東テイ国として漢帝国が想定していたのは台湾と八重山諸島までの範囲ではないだろうか。台湾、与那国島、西表島、石垣島、宮古島などを中心に二十余りの集落があったと考えるのは無理がないし、この範囲なら晴れれば見えるほど近い。日常的に行き来できるほど近くはないが、年に何度かは交易に訪れるのはありそうなことだ。
そして、ここでもう一つ考えておくべきだと思うのは、なぜ、「東テイ国」が漢書地理志以降の中国史書に出てこなくなったかということである。
8.2.6 東テイ国はなぜ漢書以降現われなかったのか
前回は、漢書における「東テイ国」は後の琉球、今日における台湾・沖縄を指していると想定されること、そして、当時の交通(航海)事情を勘案すると、東テイ国の範囲は台湾および八重山・石垣諸島あたりまでに限定されるのではないかということを述べた。そして、なぜ東テイ国が漢書以降の中国史書に現われなかったかという疑問点をあげたところである。
この点については、同じく漢書に似通った説明文のある「倭国」との比較が可能である。倭国については、後の時代(邪馬台国、タイ国、日本国)まで倭国の後継であることを中国史書に記載がある。なぜ東テイ国ではそれがないのだろうか。これについては、大きく3つの要因があると考える。
第一は、漢代以降、中華王朝と東テイ国との間で、貿易や政治的な結びつきが大きくならなかったと考えられることである。倭国の場合は、朝鮮半島の領有権をめぐってたびたび中華王朝に働きかけをした。その際、領有権の正統性を強調する必要から、例えば倭の五王のように「われわれは以前から朝貢している倭国である」と中華王朝に対してアピールを行ってきた。
その間には数十年のタイムラグがあったこともあるし、親子だの兄弟だの主張しているのも本当のことかどうか分からない(後の時代に、まったく血縁関係がないのに後継を名乗った第二尚氏の例がある)。とはいいながら、朝鮮半島の南東方面から中華王朝の出先機関(楽浪郡・帯方郡)に対して、定期的に朝貢の使者を送ってきたことは間違いないのである。
第二に、東テイ国というのはあくまで中国側からの呼称であり、彼らの側から積極的に用いた名前ではないと考えられることである。倭国の場合は、自ら「倭王武」と名乗った国書を中華王朝に送ったように、中華から周辺地域に対する蔑称であると同時に周辺国も自ら名乗りに用いてきた(のちに日本国に至り、「倭」によくない意味があることから佳字の国名としたとされる)。
東テイ国も後にその名で国書を送るなどの事実があれば、当然中国史書に記録されたと考えられるが、そうした事実はなかった。東テイ国に想定される地域のうち、台湾は後の時代まで自ら独立国を名乗ることはなかったし、琉球は1500年後の三山時代に明に朝貢するまで中華王朝の冊封体制下に入ることはなかったのである。
第三に、第一・第二とも関連するが、漢代以降1000年以上の間、南西諸島地域が権力の空白期に入ったようなのである。後に琉球を名乗ることになる奄美・沖縄・八重山諸島だが、琉球の語源としては、隋書にも記載のある「夷邪久」が有力な仮説である。そして夷邪久とはもともと、隋に来ていた倭国の使者が、琉球を指して言った言葉なのである(音声としては、琉球にも屋久にも近い)。
つまり、大和朝廷の創生期には、倭国南方に中国が「琉球」と呼び倭国が「夷邪久」と呼ぶ領域(海域・島域)が認識されていた。ところが、唐から五代十国、宋、元の時代には、奄美・沖縄・八重山諸島から中華王朝にも倭国にも働きかけはない。そして、「中山世鑑」の記載に基づけば沖縄の古代王朝は清和源氏の後継であり、日本の天皇家の血筋という主張なのである。
こうした要因を考えると、東テイ国として漢代に朝貢した人達は、おそらくは台湾・八重山諸島を地盤として漁業に従事していたと考えられるが、後の時代までそのままの形で残ることはなかったのであろう。その傾向は、すでに600年後の隋の時代にあらわれているように思うのだが、それについてはまた改めて考えてみたい。
[Mar 25, 2015]