吉野ヶ里遺跡出土鉄器
1~2世紀、ちょうど倭国大乱の時期に、青銅器と鉄器が同時期に日本列島に入ってきた。これにより急速な生産力の増大が可能となったのだが、どうしてこのような急激な変化が起こったのだろうか。出典:IPA「教育用画像素材集サイト」

1.4 倭国大乱

1.4.1 倭国大乱は民族大移動ではないか

安帝の永初元年(西暦107年)に倭国から後漢への最後の朝貢があった後、倭国に大きなできごとがあった。倭国大乱といわれる事件である。

桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主(後漢書東夷伝)

訳:桓帝、霊帝の時代、倭国は大いに乱れた。戦いが絶えず、何年も王が定まらなかった。(拙訳)

この後、女王を立ててようやく国家が統一され、その女王は卑弥呼・・・と続くのだが、桓帝の在位は146-167年、霊帝の在位は167-189年だから2世紀後半の数十年間にわたって、倭国は混乱状態にあった、というのが中国側の認識であった。

混乱状態というと、約1200年後、応仁の乱の後に生じた戦国時代を想像してしまうが、実は戦国時代には、外国から見た場合日本は混乱(無政府)状態にあった訳ではない。国を代表する皇室も、武家政権を代表する室町幕府も存続しており、一方で下剋上と地方分権が進んだだけである。その間、戦国大名の大内氏はちゃっかり中国(明)に朝貢している。大乱というからには、それ以上なのである。

私は、この時起こったのは日本列島への民族大移動だと思う。つまり、朝鮮半島南部と九州北部を拠点としていた勢力が、朝鮮半島南部の領土を追われ、追われた人々が九州北部に移動し、そのあおりを食ってそれまで九州北部を支配していた勢力が九州南部に追いやられ、その過程で戦乱状態となったということではないだろうか。こう考えると、かなり多くのことが説明できる。

まず第一になぜ大乱となったかということだが、土地を奪われた人々(つまり難民)が九州北部で平和にくらしていた人々の土地を奪うのだから、当然争いになるし、これは双方後に引けないからかなり長引くことになる。九州南部は北部と比べて農耕に適した土地が少ない。阿蘇山や桜島の火山灰の影響である(ちなみに、この時代まだサツマイモは日本に入っていない)。だから土地を奪われた方も必死に反撃したはずである。まさに、「大いに乱れた」ことになり、その間中国(後漢)の都や出先機関に朝貢する余裕などないだろう。

第二に、大乱以前には朝鮮半島南部は倭国という記録が残っているのに対し、これ以降(卑弥呼の時代)倭国は朝鮮半島の対岸という表現になっている。後漢書の東夷伝では韓(馬韓、辰韓、弁辰)についても書かれているのだが、海まで領土である場合にはそう書いてある(東西以海為限とか)にもかかわらず、「南は倭に接す(南與倭接)」とはっきり書いてあるのだ。

第三に、桓帝、霊帝の時代というのは後漢の末期にあたり、国内では宦官の専横を契機とする内乱状況、国外では匈奴といわれる異民族の侵入により社会不安が大きくなった時代である。戦乱により移動を余儀なくされた人々は多かったはずだし、その中には中国東北部(匈奴との国境になる)から朝鮮半島に移動した人々もいたと考えられる。そのように順々に押し出される形で朝鮮半島南部から日本列島に移動するということは大いにありうることである(後のゲルマン民族大移動や五胡十六国の例もある)。

第四に、倭国大乱後ようやく国力を回復した倭王が中国(その頃は宋)に朝貢して何をしたかというと、朝鮮半島南部の軍事権を主張したのである。

1.4.2 再三にわたり朝鮮半島の軍事権を主張していた倭の五王

讚死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。(宋書倭国伝)

訳:讃が亡くなって弟の珍が王となり、使節を派遣し朝貢してきた。自ら「倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王」と名乗っており、正式にそのように任命するよう願ってきたので、「安東將軍倭國王」に任命する(太祖文帝の)詔が下された。(拙訳)

倭の五王時代に、歴代の倭王は再三にわたり、「倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王」に任命してもらうよう運動していた。これはどう考えても、倭(日本列島)よりも百済新羅・・・(他はすべて朝鮮半島南部)に重点が置かれていて、そこでの軍事行動(=実効支配)を認めてくださいということである。(領有権はあくまで朝貢先=宋にあるとしている。ただし、宋は黄河以南を支配する南朝なので、実際の効力がどの程度あったかは疑問)

上表文(今で言う陳情書)が出されたのは西暦436年とされる。しかし、「倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」六国の諸軍事を希望したにもかかわらず、「安東將軍倭國王」しか認めてもらえなかった。その後、たびたび朝貢、陳情を続けた結果、478年の倭王武の時代にようやく、「都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」を認めてもらうことができた。この際朝鮮半島への軍事権を認めてもらうための根拠として示したのが、前に上げた倭王武の上表文なのである。

倭王武の祖先が半島を支配していたのがいつなのか。2世紀ほど前の邪馬台国・卑弥呼の時代にはすでに九州に都があった。もちろんそれ以降に朝鮮半島に侵攻した可能性もあるが、この時代は高句麗と新羅が勢力を拡大し、もとからあった百済をも圧迫しているのである。ニューカマーの倭国がゼロから勢力を拡大したとは考えにくい。そういう状況にあったにもかかわらず朝鮮半島に進出を考えていたとすれば、「ここはもともとうちの土地じゃないか」ということではなかっただろうか。

五つ目の理由は、これが一番大きなものなのだが、後漢安帝の「倭奴国金印」(人間=奴隷が主な輸出商品の時代)からわずか100年後の邪馬台国で、きちんとした国家体制と工業化が実現できた理由として、最も納得できる回答が「先進地域である朝鮮半島からかなりの質・量の人口移動があったから」ということだろうと思うからである。

詳しくは魏志倭人伝の考察のところで述べるが、邪馬台国には税も官僚制度もあり、金属(青銅・鉄)製品、繊維製品を輸出(=朝貢)できるまでに工業化されていた。100年あればその位のことはできると思われるかもしれないが、和人と1000年以上境を接してきたアイヌ民族には、最後まで税も民族国家もなかったことからすれば、単に交易関係だけでこうした変化が起こるとは考えにくい。

他にも、土木技術や窯業の技術(後に土師器や須恵器に発展する)、養蚕の技術や機織りの技術などもこの時期に大々的に日本列島に入ってきたものとみられる。
交易関係があった以上それ以前にもそれらの技術は部分的に移入してきたものとみられるが、それまでは「人間」しか朝貢するものがなかったのである。(それ以前には薬草を朝貢したようであるが、言うまでもなく薬草の本場は中国である。)

1.4.3 「漢委奴国王印」は民族大移動による混乱で所在不明になった

  

民族大移動があったと考える六つ目の理由は、やはり魏志倭人伝の記事である。邪馬台国の南に、狗奴国という別の国があり、卑弥呼の支配には属していない。男王卑弥弓呼(ひみくこ)は卑弥呼と「素不和(もともと仲が悪かった)」という。なぜ、もともと仲が悪いのだろうか。これも、邪馬台国が狗奴国を南に追って良い土地を奪ったので、狗奴国と邪馬台国とは不倶戴天の敵と考えるとしっくりくる。

そして最後の理由は、倭国大乱より前に後漢から金印を下賜された倭奴国はどうなったのかということである。金印は江戸時代に偶然、福岡県志賀島で発見された。金印は大変貴重なものである。国を代表する資格を認定されたということや、美術品・工芸品としても貴重であるということもさることながら、金なのだから鋳潰して武器や食料と交換できるのである。

それが偶然見つかったということは(石の下に埋められていたらしい)、少なくとも盗賊や征服者に奪われたものではない。そして、倭奴国が存続していたとすれば、どこかもっときちんとした場所、例えば海の正倉院といわれる沖ノ島や、どこかの古墳の中といったところに残されていたはずである。それが、農作業中に偶然発見されたということは、その場所に埋めたということを知っている人間が、その後に支配した人間の中にはいないということである。つまり、後漢から金印を受けた倭奴国は、倭国大乱のどこかの時点で滅亡したと考えられるのである。

倭国大乱時に朝鮮半島から多数の難民が流入し、それがもとで戦乱が長く続くという混乱状態の中で、金印がどこにあったかということを記憶するすべての人がいなくなってしまった。場所さえ分かればたとえ墓の中だったとしても奪ったはずであり、それすらできなかったということは、民族大移動のような大きな混乱を想定してもよさそうである。

ここで突然出てきた「海の正倉院」沖ノ島であるが、玄界灘の真っ只中に浮かぶ孤島であり、宗像大社の沖津宮として、現在でも神職一人だけが住む絶海の孤島である。この島からは祭祀遺物や夥しい数の銅鏡等が出土しており、平成18年に国宝・重要文化財に指定された(島自体も、天然記念物)。そしてこの島についての記載が古事記・日本書紀にみられないことにより、大和朝廷が4、5世紀以前に日本列島を代表していないということが推定できるのである。

正確に言うと、地名としての「宗像大社沖津宮」は出てくるのだが、そこになぜ数多くの宝物があるのかについて、全く説明されていない。

また、何度か話に出てきた金印の「漢委奴国王」の読みであるが、よく言われるところの「かんの・わの・なの・こくおう」という読み方は当時の下賜された例からみて考えにくい。「匈奴」と同様「倭奴」で一つの言葉を形成していたと考えるのが妥当である。これを、「わど」と読んだか「わぬ」なのか、あるいは「いど」「いぬ」なのかは議論の余地があるが、いずれにせよ「奴」にいい意味はなく、「倭の野蛮人の国王」という意味なのは残念ながら間違いなさそうだ。

朝鮮半島からの民族大移動によって、日本列島に工業化と、生産力向上と、税のシステムが移入されたと考える。つまり、この時点で、財と労働力の収奪、収穫のシステム的な搾取という征服活動のメリットが生じることになる。では、それがすぐに日本列島全土の統一ということにつながったのだろうか。ここでいったん中国の史書から離れて、日本国内のこの時代の遺跡についてみてみることにしたい。

[Aug 24,2007]

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