三内丸山遺跡復元予想
縄文時代の集落跡。イメージ的には、もののけ姫のアシタカがいたムラに近い。出典:IPA「教育用画像素材集サイト」

1.3 古代のムラと国

1.3.1 古代のムラ

さて、話は古代日本に戻る。まず考えていただきたいのは、統一政権とか国家とは、どの時点でどのように形成されるのかということである。古代には憲法もなければ、国連もない。警察も学校も役所もマスコミもない。自分達が暮らせる最低限の生活手段しかないのである。

このことを考える上で参考になるのは、江戸時代まで北海道の主であったアイヌ民族である。「イオマンテ(熊送り)」で知られるように彼らは基本的に狩猟民族であるのだが、定住して小規模な農耕も行っていた。そして一族を中心とするムラ(コタン)があり、ムラを中心に日々の暮らしや年中行事、祭祀が行われていたのだが、統一された国家というものはなかった。

もちろん、他のムラとの間には縄張り(山や川)をめぐる敵対関係があったし、一方で協力関係もあった。そして大規模な戦争(残念なことにアイヌ民族が大規模な戦争になる場合、相手は必ず和人=本州に住む日本人である)になると、村々の中で最も勇者とされた人間が中心となり指揮をとった。その一人がシャクシャイン( ? -1669)で、日高に銅像が立っている。

しかしそれ以外の場合は統一した行動がとられることは少なく、通婚関係があるので儀礼的な物資のやりとりはあったにせよ、収穫の一部を上位者に納めるという「租税」的なものもなかった。おそらく古代日本もそれと大きな違いはなかったと思われる。だからそもそも農耕という生活を営むために血縁関係を中心とする共同体ができて、それが農業生産の拡大によって大規模なムラに発展したとみるのが自然であろう。

ただ言えるのは、狩猟生活と農耕生活とでは大きな違いがあって、農耕の場合は大人数で行った方が生産性が上がるためムラが大きくなる方向に向かうだろうということと、土地の優劣(日当たりとか高低、肥沃かどうか)や水利の有無によって収穫に大きな差が出てくるので、他のムラとの敵対関係が狩猟の場合よりかなり深刻になる、すなわち争いが起こりやすいということが考えられる。

ただし、こうした土地争い・水争いの場合、戦いは必ずしも大規模なものとはならずに、例えば双方の代表が一騎打ちをして勝った方の言い分が通るとか、せいぜい小グループによる戦闘にとどまったものと考えられる。いずれにせよそうした自然発生的なムラ、村落共同体がどのくらいの規模のものであっただろうか。

ここで注意してほしいのは、古代には橋もなく、高速道もなく、新幹線も走っていないということである。大陸と違って日本の土着馬は小さく、サラブレッドのように乗って走るよりは、ロバのように荷物を持たせたり農耕作業用に使われていたと考えられる。だから移動のスピードは自分の足で動ける速さとなる。

さて、仮に東西に流れている川の両岸に展開する耕作地を持つムラがあったとしよう。川の両岸それぞれ100m、集落(住居地)を中心に歩いて1時間=4kmの耕地を支配しているとして、さて、これで何人の人口を養うことができるだろう。

一人が一年に食べるコメが一石、一石のコメがとれる水田が一反、一反は10aである。10aは10m×100mにあたるから、さきほど想定したムラで得られる収穫はコメにして20(川の両岸200m)×40(4km)=800石。つまり収穫は800人分となる。川の両岸に100mずつというとかなり広範囲だし、4kmはJRの駅ひとつ分である。他に農耕以外で得られる食料もあるし子供もいるから、おそらく実際には1000人規模の人口とみることができるだろう。

農耕の初期段階におけるムラの規模は、せいぜいこのくらいが限界だったのではないだろうか。そしてそうした大規模なムラが「クニ」と呼ばれるようになったのではないだろうか。

1.3.2 倭王武上表文からみた一国の規模

日本古代史の謎といわれるものの中で、過去にはかなり注目を集めたにもかかわらず現在あまり注目されていないものの一つに「倭の五王」がある。後漢が滅亡してから隋が興るまで中国には統一王朝がなく、3~6世紀にかけては三国時代(魏・呉・蜀)から南北朝という分裂時代であった。この中の北朝に継続的に朝貢していたのが倭の五王(讃・珍・斉・興・武)であった。

何十年か前には、この五人の王がどの天皇にあたるのかという議論が非常ににぎやかだったのだが、いまほとんどそういう議論がない。これはなぜかというと、大和朝廷の天皇とするとどうしてもつじつまが合わないからである。だから、常識的に考えれば彼らは大和朝廷の天皇ではないということになるのだが、それを断言してしまうことに何か不都合があるのだろうか。

それはそれとして、五王のうちの「倭王武」が宋(後の統一王朝ではなく、南朝のひとつである)に朝貢したときの文書が、非常に有名な以下の文書である。

自昔祖禰 躬環甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國 (「宋書」倭国伝)

訳:昔からわが祖先は、よろいかぶとに身を包み、山川を越えて方々に遠征し、休む暇もありませんでした。東では毛人の国50を征服し、西では衆夷の国66を服属させ、さらに海を北に渡って95ヵ国を支配しました。(拙訳)

昔この文章を読んだ時まず思ったのは、そんなにたくさんの国はないだろうということなのだが、これはもちろん後世の国のイメージではない。先ほど想定したに述べた農耕の初期段階におけるムラ=「国」と想定すると、一国で千人くらい、JRの駅くらいの離れ方とすると、かなりしっくりくる表現であることが分かる。そして海を北に渡って征服というのだから倭王武のいるのは九州北部であろうし、西と比較して東の征服国が少ないのは、本州にはあまり支配地を増やすことはできなかったのだろうという推測が可能となる。

日本の人口は、江戸時代で約2千万人、約800年さかのぼった奈良時代には4~5百万人と推定されている。さらに時代をさかのぼって5世紀以前を想定すると、金属器の普及が十分でなく農業生産性が低いことを勘案すると、1~2百万人という推定はそれほど大きく違ってはいないだろう。そして、馬で移動できて街道も整備された江戸時代でさえ「三百諸侯」いたのだから、古代は千や二千の支配者がいておかしくない。人口で割ると、ひとつの「クニ」の人口は1000となる。先にあげたクニの想定される規模とこれも同じである。

さて、そういうムラ=「国」が散在していた時代において、ある日ある場所に「この世のものはすべて俺のものだ」と考える人間が出現した。こういう人間は洋の東西、時代の新旧を問わず必ず出てくるのである。そして、その人間が実行可能な手段を持っていたとき、征服活動が行われることになる。最初に検討したモンゴルでは、チンギス・ハーン的には「馬と女」、より普遍的には「周辺諸国が有している貴金属」を目当てとして征服が行われた。それでは古代日本で、一体何のために、何を得るために征服活動が行われたのだろうか。

1.3.3 紀元1世紀における日本列島の輸出商品は人間

人間がまず求めるものは食の安定であることは、常識的に判断して当然である。だから、ある程度生産力に余裕ができた場合には食料の備蓄が行われたはずだし、何かの事情で収穫が不足した場合には他のムラの備蓄を奪ってしまおうということになったとしても不思議ではない。

しかし、コメにせよ他の作物にせよ、食料というのは備蓄に限界がある(冷蔵庫はない)。そして、消費するにも限界がある。一人が十人分もの食料は必要としないのである(フードファイターでもない限り)。だから、食糧不足が顕在化しない限り、備蓄食料を目当てとした征服というのはそれほど大規模なものとはならない。

それでは何を目当てに征服活動が行われるのか。おカネで奪うことができれば、将来何かあった場合に必要なものを買うことができるが、この時代まだおカネはない。おカネに代わるものは何か。いまも昔も、舶来のブランド物は人気だ。この時代に先進国は中国しかない。中国からもらっていた金印とか銅鏡とかが、おカネの代わりにならないだろうか。

金印はなかなかもらえないが、中国に朝貢すると銅鏡とか当時のハイテク製品(鉄製品、銅製品、繊維製品など)をおみやげにもらうことができた。これを朝貢貿易という。中国側にとっては儀礼(朝貢に対する返礼)であるが、朝貢する側にとっては中国側で求められる財物を持って行き、自分サイドが求める財物をいただいて来る必要がある。つまり貿易である。それでは何を貢ぎ物として持って行ったのか。それは、中国の歴史書に書いてある。

安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見(後漢書東夷伝)

訳:安帝の治められた永初元年(107年)、倭国王帥升らが生口160人を献上し、謁見を希望してきた。(拙訳)

生口とは何かというと、奴隷のことである。一説には「食材としての人間」ではないかという説もあるらしいが、この時代すでに中華料理は現在の形に近いものに完成されていたので、それはないと思う。いずれにしても、日本列島からの輸出商品は「人間」だったのである。

「食材としての人間」にこだわる人もいないではないようだ。確かに、古代においては食人の風習はあったようであるが、それは多くの場合、食糧難の場合であったり、民間療法=病気の治療であったり、勇者の肉を食べることによりその能力を受け継ぐことができるという一種の儀式的なものと推測される。

つまり、「ヒトの肉は旨い」から食べる訳ではなく、「薬効があるから」食べるのであって、その裏には「できれば食べたいものではない」という気持ちがある。

従って、「ヒトの肉は旨いから(他の肉をさしおいても)食べたい」のであれば食材としての人間の輸入もあるかもしれないが、そうでない以上おおっぴらにそんなものを輸入(朝貢)しないだろうと考えるのである。

「人間」を収奪するのはどういうことかというと、そのムラ=国を滅ぼしてしまうということである。モンゴルの例に倣えば、①武力による制圧、②財や労働力の略奪、までで終わってしまい、③収穫および労働力を搾取するシステムの確立、に至らないということである。現代の言葉でいえば、征服した年のGDPは増えるが、翌年からまた元通りになってしまうということであり、いわば大規模に泥棒(強盗)をしただけであって、領土を拡大することによるメリットは限定的である

一つ付け加えると、「ムラを襲って財産を奪う」のと「ムラを襲って住民を生け捕りにする」のと、どちらが難しいかということである。

当然、相手は抵抗する訳だから生け捕りにする方が難しく、それだけ多くの人数=兵力で攻めなければならない。食材として使われる(?)ならともかく、労働力として提供する以上、大きなケガをさせては生口として役に立たない。

そのことからも、あまり本拠地から遠く離れて「生口狩り」のための征服活動が行われたとは考えにくいのである。

ここでもし、何らかのカネに代わるものがあって、加えて余剰生産力があるとすれば、武力で制圧しカネ目のものを奪った後で、それから後の収穫を納めさせることで、征服者は「GDPが年々増える=やりたいことができる=権力を増す」ことになるだろう。その段階になって初めて、領土の拡張は意味のあるものとなる。何をいいたいのかというと、1~2世紀の段階では征服活動により得られるものは限られており、領土拡張がそれほど意味があるものではなかっただろうということである。

さて、後漢の時代に生口(奴隷)しか輸出商品を持たなかった倭国が、それから100年余り後の三国時代(魏志倭人伝=卑弥呼の時代)にはすでに輸出できる工業製品を持つようになっていた。卑弥呼の詳しい話はもう少し後にするとして、その100年の間に何か大きな変化があったのだろうか。実はあった。倭国大乱といわれる事件である。

[Aug 09,2007]

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