銅鐸(岡地船渡1号銅鐸)吉野ヶ里遺跡出土鉄器
2~3世紀に起こった倭国大乱の後、銅鐸・銅剣・銅戈といった青銅器が日本列島でも作られるようになった。農業生産力の向上と青銅器の製作との関係は?出典:東京大学総合研究資料館

1.5 生産性の向上と青銅器の意義

1.5.1 倭国大乱と生産力の向上

前の章では、古代日本ではたして統一政権が成立することができたかという観点から議論してきたが、ここまでの意見をまとめると以下のようになる。

① 紀元1世紀までの日本列島においては、余剰生産力とこれに伴う富の蓄積はほとんど行われていなかったと考えられる。これは、後漢安帝への朝貢(107年)において奴隷(生口)以外に輸出商品がなかったことからも裏付けられる。こうした状況の下では領土の拡張に大きなメリットはなく、統一国家を形成する動機(意味)がないといえる。

② しかし、3世紀半ばの邪馬台国においては、工業化が図られるとともに余剰生産力が生じており、これに伴って租税制度、国家体制がある程度整備されている。

③ この間、わずか100年余りの間に「倭国大乱」が起こったことが中国の史書に記録されている。その前後に大きな社会的変化が起こったことになり、当時の先進地域である朝鮮半島から相当数の人口流入(民族大移動)があって、それがもとで混乱状態になったと考えるとつじつまが合う。

さて、日本史における時代区分では、倭国大乱後の2~3世紀が弥生時代後期、4~6世紀が古墳時代ということになっている。前者においては銅鐸・銅剣・銅戈・銅鏡をはじめとする青銅器が、後者においては副葬品を含む古墳が全国各地に遺物として分布している。これらはいずれも、余剰生産力が生じたことにより可能となったものであるという共通点を持っているのである。

以下ではまず、弥生時代後期における青銅器の製作について考察してみたい。

青銅器と鉄器では世界史的にみると青銅器の方がより早く成立したといわれるが、いずれにせよ紀元前には製造方法は確立していた。その製法が工業化というレベルで日本列島に入ってきたのは、金印以降邪馬台国以前、つまり倭国大乱といわれる時期であり、朝鮮半島からの人的移動と不可分であると考察してきた。

銅と鉄では銅の方が融点が低く、溶かして成型する上においては銅の方がより容易であり、また他の金属との合金(錫との合金である青銅など)であればさらに融点は低くなる。

しかし、鉄の場合は必ずしも溶かさなくても鍛造[熱して叩くことにより純度を高める]という方法があるため、技術的にそれほど成熟していなくても鉄器の製造は可能であったと考えられている。

その際、製鉄と製銅ではかなりその位置づけは異なっていたと思われる。というのは、鉄はその字(鐡)の成り立ちから、「金の王なる哉」といわれるように硬くかつ頑丈である。そして、定住し農耕を行う社会において、鉄の農機具があるかないかでは、作業の進み具合=生産力に大きな差が出てくるのである。併せて、武器として使う場合にも、きわめて強力な鏃(やじり)や刃となる。つまり、実用的であるということである。

これまで手作業やこわれやすい木製品で耕してした耕作地を、鉄製の農機具を使うことにより従来の何分の1かですますことができれば、より多くの収穫が得られたり、余った人数を他の作業に割り振ったりすることができる。現代の言葉でいうと、GDPが増大して貯蓄が可能となったのである。つまり、製鉄技術は農業生産性の向上にとって不可欠だったということである。もちろん銅も金属器であるが、強さという点で鉄製品の方が上である。

1.5.2 青銅器は何のために作られたか

おそらく最初は、食べる分以上に生産した収穫を保存しておいただろう(翌年も豊作になるとは限らない)。しかし当時はまだ冷蔵庫がないので保存しておくにも限界があるし、そもそも一人が食べる量も限られているのでむやみに増やしても仕方がない。余裕ができた労働力で衣類のような繊維製品を作ったとしても、自分達が着るものはそんなにたくさんいらないし、品質では外国(中国・朝鮮半島)製に敵わない。

こうした状況の下で余った生産力(労働力)をどこに向けたのかというと、私は青銅製品の製作ではないかと考えるのである。銅とスズの合金である青銅は確かに硬いし頑丈だが、実用性では鉄に劣る。しかし、吉野ヶ里をはじめとする弥生時代後期の遺跡からは銅製品を製作した遺稿がしばしば見られるし、現実として全国に銅製品が出土している。これはなぜか。

おそらく、富の蓄積のためである。つまり、青銅製品というのは「おカネ」にかわるものだったのではないか(ちなみに、後の時代に銅銭は代表的な貨幣となり、現代にも10円玉として残っている)。収穫物で貯蔵していれば腐敗したりネズミに食べられるかもしれないが、換金性のある、つまり他の土地に持っていけばコメと替えられる物で保管すればそういうリスクが少ない。もう少し時代が下れば金や銀になるのだろうが、おそらくそれと同じ感覚で、青銅製品を製作し蓄積した、つまり「貯金」なのではなかろうか。

この仮説は決して突飛なものではない。弥生時代よりも数百年前の春秋戦国時代、北京から遼東半島を基盤とする燕では、刀の形をした青銅貨幣・刀銭が流通していた。銅を保管するなら刀剣の形でというのは、先進国である中国から伝わった知識だったかもしれない。少なくとも、材質が同じという知識はあったはずである。

青銅製品の出土状況をみると近畿を中心とする「銅鐸」と九州を中心とする「銅剣・銅戈(どうか)」の分布がかなり顕著に分かれている。そのうち銅鐸については古事記・日本書紀をはじめ現在残っている日本の神話にはその由来が述べられていない。ただ、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)で銅鐸の一部が出土したりして、昔ほど「銅鐸文化圏」「銅剣・銅戈文化圏」と区別する議論は少なくなっているようだ。

ここで一つ指摘したいのは、「銅剣・銅戈は武器として使われたのは分かる。銅鐸は何に使われたのかよく分からない」という議論があるのだが、銅剣・銅戈が実戦で使われたとは到底考えられないということである(”旗印”的な飾りとしてはあるだろうが)。

青銅製品も確かに硬いが、鉄製品には敵わない。そして長さ1メートル近いものは少なく見積もっても4、5kgはある。ウェイトトレーニングをされた方なら分かると思うが、そんな重さのものを上げたり下ろしたりそう簡単にできるものではない。つまり実戦で使われたものではないと考えられるのである。

1.5.3 富の蓄積と余剰生産力により領土拡大は意味のあるものとなった

1984年に島根・荒神谷遺跡から358本の銅剣をはじめとして銅鐸・銅戈が1ヵ所から大量に発見された。また、前にあげた宗像大社の沖津宮・沖ノ島でも夥しい数の銅鏡が出土している。ということからすると、そもそも銅鐸も銅剣も銅戈も、すべての銅製品は「換金性を持つもの」として製作されたと考えるのが最も筋が通る。

そして、国内にある銅製品は、現在残っているものの他に相当量あったと考えられる。というのは、後に平城京を都とする日本列島初の中央集権国家ができた際に、全国規模の銅拠出命令が出されているからである。もちろん、東大寺の大仏製作のために必要とされた銅である。

さて、ここにきて初めて、「余剰生産力と財」という、侵略行為=領土拡大の直接の動機となるものが登場した。余剰生産力があるということは、「働かなくてもいい人間がいる」ということだから、侵略することにより自分が働かなくてもよくなるということは十分な動機になりうる。また、財(=銅製品)があるということは、他の地域や先進国(中国・朝鮮半島)から必要なものを手に入れることができる。

つまり流れとしては、①朝鮮半島から大規模な人口移動が起こり、先進技術が日本列島に入ってきた、②それに伴い農業生産性が向上し、余剰生産力と財の蓄積が起こった、③それらを目的として、大規模な領土の獲得=侵略行動が意味のあるものとなった、という順番で、領土拡張=侵略活動のメリットが生じてきたと考えられるのである。

ここでもう一つ重要なのは朝鮮半島からの人口流入により「税」という最新社会制度も日本列島に入ってきたことである。「税」の存在により、侵略された国々は身体・居住の自由を奪われる(奴隷になる)代わりに、それ以降の収穫から「税」を納めることによりその存在が認められることになる。おそらく魏志倭人伝において邪馬台国に属するとされた二十余りの国は、そういった形で侵略され属国となったものであろう。

さて、ここで最初に戻ってモンゴルの事例を思い出していただきたい。モンゴル・ウルスは、馬という高速移動手段とジャムチという高速運輸通信網により広大な領土を治めることができた。一方、古代日本において、そのような手段があっただろうか。そして、侵略にあたって軍勢をどうやって移動させたのか。その考察により、統一国家がどの範囲で可能であったのか推測することができる。

その素材として、次回は「古事記」の神武東征について検討してみたい。

[Sep 13,2007]

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